「正義と嘯く」という話『荀子』

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「正義と嘯く」という話『荀子』

正義って何でしょうね。

『荀子(じゅんし)』に「義を正にして行う。これを行という」(※)とあります。『荀子』は今から二千年以上も前の書物ですから、正義はかなり古い言葉です。
※『荀子(じゅんし)』「正名」に「正義而為謂之行」とあります。

それだけ古くからある言葉「正義」ですが、正義を行う人より、翻弄(ほんろう)される人のほうが多いのは何故でしょうか。

自分が思うより他人(ひと)はよく考えているものです。
少し考えてみましょう。

《目次》
【荀子】
【性悪説】
【学問のすゝめ】
【正義の本質】
【正義のベクトル】
【正義と嘯く】
【参考文献・資料】

※読切
※文庫本【11】頁(41文字17行)
※原稿用紙【13】枚(400字詰め)

*****

【荀子】
『荀子(じゅんし)』を書いた荀子(じゅんし)は紀元前(B.C.)四世紀末に生まれたとされています。いちおう紀元前313年から紀元前238年に生きたとされているのですが、なにぶん古いのでよく分かりません。

この「よく分からない」というのは私が調べていないとかそういうものでもなく(※)、学者が調べても「よく分からない」という意味です。歴史書がつくられるようになってからは正確になるのですが、この時代(Before Christ)の中国はまだまだ分からないことが多いのです。
【要確認】荀子の生没年を再度調べます。

『三国志(さんごくし)』でお馴染みの荀彧(じゅんいく、163年(延熹6年)―212年(建安17年))や荀攸(じゅんゆう、157年(永寿3年)―214年(建安19年))が荀子の末裔といわれています。

『三国志』は歴史書ですから、荀彧や荀攸の年代もはっきりします。ここでは、荀彧や荀攸の話はしません。たぶん皆さんのほうがよくご存知でしょう。

よく勘違いしている人がいるのですが、『三国志』とは別に『三国志演義(さんごくしえんぎ)』という小説があります。こちらは「演」の文字があるように、楽しませるための「演出(嘘)」があります。一部は虚構(フィクション)な訳です。

かなり『三国志』を読み込んで描かれていますので、『三国志演義』の内容を本当に思っている人もしばしばいます。演出のある歴史映画を見て、それが史実だと勘違いしてしまうことはよくあることです。

人間は、自分にとって楽しいこと、都合のよいことを真実だと勘違いする生き物なのです。

【性悪説】
荀子は「性悪説(せいあくせつ)」をとなえました。人の本質は「悪」だというのです。

「人之性惡、其善者偽也」
「人の性は悪なり、その善なるものは偽なり」
「人の本性は弱いもので、その善というものは偽です」
――『荀子』「性悪」

意味が通じるように意訳(いやく)しましたが、この場合の「悪」は積極的に悪行をすることではありません。弱い性質なので出来心で「ついやってしまう」ということです。ままもっともそれが悪行になるのですけれど。

なお、「人は性悪だから罪罰を厳しくすべきだ」という意見とは別の話です。

ですから、『易経(えききょう)』の64卦の21「噬嗑(ぜいごう)」の「校(あしかせ)を履(ふ)みて趾(し)を滅す。咎(とが)なし」(※)とは関係がありません。
※『易経』「噬嗑」に「初九、屨校滅趾、无咎」とあります。

こちらは刑罰の話で、悪さばかりするどうしようもない小人(しょうじん)は「足枷(あしかせ)をして自由を奪うことで今後、悪事ができなくなり、咎(とが)められることはない」ということです。『易経』の話は長くなるので、別の機会にしましょう。

人間だれしも欲望はあるものです。その欲望を、愛をも捨てなさいと言ったのが釈迦(しゃか)です。釈迦については、別の機会にしましょう。

なお、「性悪説」とは別に「性善説(せいぜんせつ)」もあるのですが、こちらも別の機会にしましょう。

【学問のすゝめ】
荀子は『荀子』の一番最初に「勧学(かんがく)」をおいています。

「學不可以已。青、取之於藍、而青於藍」
「学(まなび)はもって已(や)むべからず。青は藍(あい)よりとりて、藍よりも青し」
「学ぶことを止めてはいけません。青は藍で染(そ)められますが、藍よりも青いのです」

何のことはありません、荀子は「(欲望に負けないために)勉強しろ」と言っています。

荀子は「人は先天的に(生まれながらにして)か弱い生き物ですから、後天的に(本質は変わらないので後から)きちんと勉強をして善を学びましょう」と説いているのです。

「勧学」は「学びの勧(すす)め」です。もちろん日本人なら誰でも知っているあの本の題名ですね。

『学問のすゝめ』は「『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず』と言えり」で有名ですが、対の句があります。それは「賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり」です。
――福沢諭吉『学問のすゝめ』「初編」

「と言えり」とは「と言われている」です。意訳すると「人は平等だと言われている。――だが実際は賢い人と愚かな人がいて、その違いは学ぶか学ばなかったかの違いでできる」と言っています。まま、イコール「勉強するならうち(慶應義塾)においでよ」(一万円札の中の人)ですが……。#joke

なお、『学問のすゝめ』は単に「勉強しましょう」という本ではなくて、列強諸国による侵略から「いかに独立すべきか」という政治思想的な本です。

「青は藍よりとりて、藍よりも青し」は、古人の作った詩文の成句(せいく)の一つ「青は藍より出(い)でて藍より青し」の原典です。「出藍の誉れ(しゅつらんのほまれ)」とも言います。

藍染(あいぞめ)といえば落語の『紺屋高尾(こうやたかお)』がありますが、こちらは別の機会にしましょう。

【正義の本質】
こうして『荀子』を考えてみると、「正義の本質」なるものが何か分かるような気がしませんか?

きちんと状況を鑑(かんが)みないと、正しさというものは脆(もろ)いということです。

「性善説」の孟子(もうし)に「天の時、地の利、人の和」があります。
cf.
「言った言わないは言っていない」という話
https://ik137.com/said-so

「天が与える時であっても地の利には及ばないし、地の利であっても人の和には及ばない」という「天の時、地の利、人の和」は、イコール「時代、背景、人物」ですし、それはつまり「時期、環境、人格」です。

時代が変われば、正義の本質も変わります。たとえば、ソビエト社会主義共和国連邦のヨシフ・スターリン(1878年12月18日―1953年3月5日)の独裁時代の正義がどんなものであったかは、粛清(しゅくせい)された人の数で判断できます。ブラックジョークです。

「愛と平和と正義。このうち一つでも素面で言ったなら、悪人と相場は決まっている」のです。

【正義のベクトル】
真理の話のときに「それぞれの真理はあり、触(ふ)れることはかないませんが確かにあるのです。月を指さす手はいくつもあり、ですが月はたった一つなのです」と述べました。
cf.
「言った言わないは言っていない」という話
https://ik137.com/said-so

正義も同じようなものですが、ベクトル(大きさと向きを持った量)があります。

山の頂が「真理」だとしましょう。その頂きに正に向かうことが「正義」です。ですが、山には東西南北があります。同じ正義でも向きが逆だということは、よくあることです。

また南のハイキングコースと北の壁では力加減も変わります。パラシュートで頂に直行する人もいれば、頂を爆破しようとする人もいます。気をつけましょう。

もし正義を行うなら、毎回毎回立場を確かめたほうがいいですね。

【正義と嘯く】
さて、「嘯く」は何と読むでしょうか?

「とぼける」や「大口を叩く」という意味で、「嘯(うそぶ)く」と読みます。

正義なんて所詮(しょせん)そんなものなのかもしれません。正義に守られた平和は案外、不安定なのかもしれません。

正義は毒薬のように人の感覚を鈍らせる恐怖があります。確かめもせず自分の感覚で経験で、正義を行うならそれは多くを傷つけることになってしまいます。注意してくださいね。

『ガルシアへの手紙』という作品がありますが、別の機会にしましょう。

そうそう、「正義の味方」という人たちを失念していました。多くは傍迷惑(はためいわく)な人たちですが、たまに本物がいます。嘘を本当に変える人です。真摯(しんし)に深く深く物事を考え、その上で正義を嘯きます。

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【参考文献・資料】
『荀子』
『三国志』
『三国志演義』
『易経』
『孟子』

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