「東アジアの思想」という話-029

Sponsored Link



「東アジアの思想」という話-29

【前漢-3】(紀元前206年―紀元後(西暦)8年)
第13代平帝の時、新都侯に封じられた王莽(おうもう)によって、前漢は滅亡します。首都長安が、後漢(東漢)の首都洛陽の西にあたりますから、西漢とも言います。

【新】(8年―23年)
王莽が簒奪し、新を建てました。ですが、すぐに漢が復興し、滅びます。

【後漢】(25年―220年)
前漢の景帝の子孫の劉秀が新を倒して、光武帝となり漢王室を再興します。献帝まで14代196年続きました。

途中、新がありますが、400年あまり続きました。そのために、今でも中国本土や民族にも、漢土・漢字・漢文・漢方のようにその名を残しています。

中国人のほとんどが漢族です。漢族という共通の民族意識になったのは、春秋時代に自らを諸夏・華夏と呼ぶようになってからです。漢代以降は、漢人・漢族と称します。

《建安七子》
建安(196年―220年)は、後漢末の献帝のころの年号です。このころの七人の文人(孔融・陳琳・王粲・徐幹・阮瑀・応瑒・劉楨)を、建安七子(けんあんしちし)と言います。

その詩風は格調高く、建安体(けんあんたい)と呼ばれます。当時の施政者曹操と、その子曹丕・曹植も含まれます。

《曹操》
『三国志演義』では悪役の曹操ですが、その才は天下第一でした。たとえば、現代に残る『孫子』は、後に魏の武帝と追尊される曹操が注を加えた『魏武注孫子』です。なお、『孫子』は、1972年に山東省臨沂県銀雀山の漢初の竹簡資料が発見されています。

曹操は、きわめて有能な政治家であり、本当の意味で文武両道でした。しかし、どうしても許されないことをしてしまいます。建安七子の孔融(こうゆう)を殺してしまったのです。

「孔」という名前からも分かる通り、孔融は「聖人」孔子の子孫です。それは悪役にもなろうというものです。

【三国時代】
《魏(三国)》(220年―265年)
後漢の献帝は、曹操の傀儡――操人形でした。曹操が亡くなった後、献帝は禅譲し、曹丕は魏の文帝となります。

曹操と同じく、実際には簒奪した曹丕も歴史的評価は低いです。ともあれ、九品中正を始めたことは一つの評価でしょう。

曹植は、曹丕の同母弟です。文人としては傑出していました。

《蜀漢(三国)》(221年―263年)
『三国志演義』の主役(ヒーロー)劉備が建てた国です。劉備は、漢の景帝の皇子中山靖王の劉勝の後裔ですから、漢の再興を意図しています。それはイコール、蜀漢による前漢・後漢から簒奪した魏への討伐です。

〈白眉/「泣いて馬謖を斬る」〉
蜀の馬氏の五人兄弟で一番優れていたのが、眉毛に白い毛があった四男馬良(ばりょう)です。このことから、同じような集まりの中で一番優れている人や物を白眉と言います。

その末っ子が馬謖(ばしょく)です。劉備は諸葛亮に、馬謖を優遇するなと遺言しましたが、諸葛亮は第1次北伐に採用します。結果、馬謖は諸葛亮の命に背き大敗を帰します。

諸葛亮は、馬謖の有能さを惜しみますが「泣いて馬謖を斬る」ことで、軍規を優先します。ここに、蜀漢の中原攻略は壮図むなしく挫折します。

《呉(三国)》(222年―280年)
劉備とともに赤壁の戦い(208年)で曹操を破った孫権は、後に独立して呉を建てました。ここに三国が揃います。

〈呉下の阿蒙〉
魯粛が呂蒙に言った言葉が「呉下の阿蒙に非ず」です。武略にのみ優れた呂蒙でしたが、孫権に本を読めと言われて学び、「もはや呉にいたころの蒙ちゃんじゃないな」と魯粛をびっくりさせました。

このことから、進歩のない人を「呉下の阿蒙」と言います。

イヤミを言われた呂蒙はブチ切れて「士別れて三日、即ち更に刮目して相待つべし」と返しました。「三日も会わなければ、びっくりするほど進歩している」というのです。何事も先入観で話をするのはいけません。

呂蒙が誰か知らない人も多いかもしれません。関羽を討った人です。関羽は後に関帝(かんてい)という神になりました。関帝を祀る関帝廟は、孔子廟と同じように全世界にあります。

【「沈黙」という話/「東アジアの思想」という話】リスト(16+35+号外1)

Sponsored Link



コメントを残す

ABOUTこの記事をかいた人

静かに書いています。作家/写真家

【Twitter】


【街角のクリエイティブ】
http://www.machikado-creative.jp/author/53/

【note】
https://note.mu/ichirikadomatsu

【Amazon】
https://www.amazon.co.jp/-/e/B00K2GC4I8