「東アジアの思想」という話-28
【前漢-2】(紀元前206年―紀元後(西暦)8年)
《官吏任用制度》
紀元前136年に、第7代武帝は五経博士を置き、儒学(儒教)を国教化しました。
それとともに、紀元前136年に、官吏養成の国立大学「太学(たいがく)」を創設します。世界に類を見ない官吏任用制度の形成です。
漢代以降、優秀な人材を現職官僚に推挙し登用することになりました。
最初は「選挙」でした。とはいえ今の選挙とは違い、官吏候補者を民間から選ぶことを意味しています。
漢代では、郷挙里選(きょうきょりせん)によって、地方長官が候補者の評判を聞いて推挙していました。
魏晋南北朝では、九品中正(きゅうひんちゅうせい)によって、地方の中正という官が候補者を9段階に評価して推挙していました。九品官人法(きゅうひんかんじんほう)とも言います。
こうした「選挙」から、科挙(かきょ)以後は試験になります。科挙は士大夫(したいふ)という官僚知識層をつくりました。
【科挙制度の確立】
儒学の国教化から、政教一致による学校制度を確立することで、優れた官吏任用制度になりました。
これは統一国家だからこそできたことです。それまでの世襲封建領主による地方支配から、皇帝が任命した知事・官僚の派遣へと変化します。
《科挙》
科挙は、民間からの官吏任用制度です。それまでの九品中正という推薦では、どうしても貴族の子弟が選ばれてしまいます。
そこで、隋(ずい)(581年―619年)の文帝が、科挙という試験で採用することにしました。なお、中央集権的帝国を樹立した文帝はとても良い政治家でしたが、二世煬帝(ようだい)が乱して滅んでしまいました。
煬帝は、京杭大運河(けいこうだいうんが)の工事を強行させた暴君です。この狂王に「日出處天子」が国書を送りました。天子は世界にたった一人しか存在してはならないのに、です。日本は、けっこう無茶な外交をしています。
さて、科挙ですが、かなり難しかったようです。ですから、当たり前のようにカンニングがありました。ただし、バレたら最悪死刑です。皇帝の側近(になるかもしれない人)を選ぶ訳ですから。
賄賂や買収もあったようです。及第し、官僚になりさえすればウハウハな人生が待っていたのですから。それも一人だけではありません。一族が栄華をきわめるほどでした。ですから、かなりプレッシャーがありました。
落第して自殺した人もいました。たとえば、唐の玄宗の夢の中で、魔を祓い病を癒した鍾馗(しょうき)が有名です。日本では五月人形になっています。
「其の聲は、我が友、李徴子ではないか?」
――中島敦『山月記』
李徴は「若くして名を虎榜(こぼう)に連ね」とあります。「虎榜」は試験に及第した人の名前が書かれた札です。そう書かれるぐらいですから、相当賢かったのでしょう。性格が災いして発狂してしまいましたが……。
試験に受からなければ話になりませんから、二浪三浪どころか二十浪三十浪とかしている人もいました。
かなり無茶な試験だったらしく、狭い部屋に入れられると三日間出ることができませんでした。食料も持ち込みできましたが、フォーチュン・クッキーよろしくカンニング防止のために中を確かめられました。
試験中は大きな門は閉じられたままです。もし途中で亡くなっても、塀越しに外に出されました。
なお、解答は王羲之(おうぎし)の書体と決められていました。とても綺麗です。王羲之の文字を書いていないと、たとえ正解だったとしても、不合格になったそうです。
当然ですが、幼いころから勉強する必要があります。一応、民間から「誰でも試験を受けることができる」科挙制度でしたが、家が貧乏だとなれませんでした。
現代のように働きながら夜間学部に進学するとか、通信教育もありませんでした。そういえば、柳川範之さんは、大学入学資格検定試験に合格し、慶應義塾大学通信教育課程を卒業して、東京大学大学院経済学研究科教授になっています。
念願かなって合格すれば、士大夫(したいふ)という官僚知識層になります。士大夫は、儒教の人治理念を実践しました。繰り返しますが、日本は法治国家です。
《「先憂後楽」》
士大夫の代表的な考え方は、北宋(960年―1127年)の范仲淹(はんちゅうえん)の「先憂後楽」という言葉に代表されるでしょう。
「天下の憂いに先立ちて憂え、天下の楽しみに後れて楽しむ」
――范仲淹『岳陽楼記』
ここに士大夫たちの自負があります。完全に天下を自分のものとして考えています。
なお、岳陽楼(がくようろう)は、湖南省岳陽市にある城楼で、洞庭湖(どうていこ)の眺望絶佳の場所として有名です。
【朱子学-1】
南宋(1127年―1279年)にあって、朱熹(しゅき)(1130年―1200年)が儒学の体系を変えます。朱子学の登場です。
朱子学による体制教学は明・清の時代まで引き継がれることになります。
朱子学は、士大夫と呼ばれる科挙官僚層の生き方を律する思想です。
朱子学は、朝鮮に伝わり、中国の明に従属していた李氏朝鮮(1392年―1910年)の思想に深く根を下ろします。
李氏朝鮮は、豊臣秀吉の文禄の役(1592年―1593年)・慶長の役(1597年―1598年)によって窮地に立たされ、宗主国「聖人の国」明に救いを求めます。結果的に、李氏朝鮮は存続しますが、明は疲弊し清に破れます。
当然、「野蛮国」日本にも伝わりました。江戸初期の林羅山(はやしらざん)(1583年―1657年)は身分制度を正当化しました。
そもそも科挙官僚層の思想です。しかし、江戸幕府には科挙がありません。どれだけ歪な思想だったか想像できるでしょう。
たとえば、天動説の林羅山は、イエズス会のハビアンの地動説を否定しました。
皮肉ですが、この歪んだ思想のために、身分制度を正当化した江戸幕府は自滅することになります。
コメントを残す
コメントを投稿するにはログインしてください。