「東アジアの思想」という話-12
【『易経』の思想的世界】
古の哲人の書が『易経』です。深遠な書は、憂いの瞳と和らいだ笑みの天才を現代に蘇らせます。
〈『易経』の成り立ち〉
「易の作者については古来相伝えて伏羲(ふっき)が八卦を画し、文王がこれを演(の)べて六十四卦となし、文王と周公が卦爻の辞すなわち彖辞と爻辞とを作り、孔子が十翼を作ったといわれている」
――高田真治訳、後藤基巳訳『易経』(岩波書店、1969年)P16
三皇の伏羲は人首蛇身です。もちろん神話の話で、仮託(かたく)――かこつけています。人知の及ばないことは、とかく異形の者に語ってもらうものです。これは中国だけでなく、アブラハムの宗教でも同じです。『旧約聖書』では蛇がイヴに話しています。
伏羲の存在は不明ですが、とにかく誰かが作ったのは事実です。岩波書店『易経』で高田真治は「伏羲は太古における雨神竜を御するシャーマンであったことが想像されるであろう」(P18)としています。確かに、『易経』1「乾」では龍が語られています。
〈雨司〉
つづけて高田真治は、「『金枝篇』の著者フレーザーによると、呪術師とくに雨司(The Rain Maker)から酋長に進化した証拠が比較的多いということである」(P18)と述べています。なお、『金枝篇』は全然面白くありません……。
伏羲が「雨神竜を御するシャーマン」「雨司(The Rain Maker)」だったと考えて問題ないでしょう。
水と龍とは古くから関連が深く、京都の貴船神社では水の神である高龗神(たかおかみのかみ)を祀っています。
中国では海は龍王が治めていて、玉帝の聖旨により雨を降らせます。『西遊記』第10回では、聖旨を曲げたのであわれ龍王は首チョンパにされてしまいます。
※中野美代子訳『西遊記(一)』(岩波書店、2005年)
ギリシア神話では、ポセイドンは海の神です。海神は馬とも結びつきがあり、ポセイドンが乗る怪獣が海馬(ヒポカンポス)です。脳の海馬体は、ヒポカンポスの下半身に似ているので名づけられました。
貴船神社では馬を奉納していました。これが後に絵馬に代わります。
さて、実際に“The Rain Maker”は存在するのかですが、これはいます。アメリカ合衆国のチャールズ・ハットフィールドは「人工降雨」の技術で、実際に雨を降らせました。
しかし、問題がありました。ポール・デュカスの『魔法使いの弟子』よろしく雨を止める方法を知らなかったんです……。現実はディズニーのように笑えません。魔法使いはあらわれず、雨は一か月も降り続き、ダムは決壊して大災害になりました。
〈『周易』〉
『「東アジアの思想」という話-6』【四書五経】《五経》〈『易経』〉
https://ik137.com/eat-006
本来の名前は単に『易』や『周易(しゅうえき)』です。易を易(エキ)と読まずに易(イ)と読む説もあります。『易』は三種類あります。夏(か)の『連山(れんざん)』、殷(いん)の『帰蔵(きぞう)』、それに周(しゅう)の『周易』です。『連山』も『帰蔵』も失われてしまったので、いま伝わるのは『周易』だけです。『周易』は「周代の易」や「周(あまね)く易(変化)の書」の意味です。
孔子がとりわけ重要視したのが、『易経』です。繰り返し読んだらしく、『史記』「孔子世家」に「韋編三たび絶つ」と書かれています。韋編(いへん)という綴じ紐(とじひも)が三度も切れるほどだったようです。
〈占筮法〉
占いの道具は五〇本一組の筮竹(ぜいちく)と、出た卦を記録するための六本一組の算木(さんぎ)の二つです。
筮竹は数を出すだけですから、別にコインでもサイコロでも問題ありません。筮竹は古くは竹の策(さく)ではなく、蓍(めどぎ)という名前だったころの鋸草(のこぎりそう)でつくられていました。そのために、筮竹以外のものを今でも筮(めどき)と呼びます。
算木は要らないかしら。出た卦(け)を紙に書けば大丈夫です。なお、下から上に並べて書きます。
占筮法には本筮法、中筮法、略筮法の三種類があります。松竹梅です。それぞれ一長一短がありますので、興味があれば調べてみてください。
「当たるも八卦(はっけ)、当たらぬも八卦」
「黙って座ればピタリと当たる」
興味本位の占術は時間のムダだと思いますけれど……。
なお、易断のプロフェッショナルは道具を使わずに精確に当てることができます。というか当たらないほうが不思議なんですが……。
注意点が三つあります。絶対に守ってください。
一、最初にきちんと考えないのに、占ってはいけません。
『春秋左氏伝』に「卜(ぼく)はもって疑いを決す、疑わずんば何ぞ卜せん」とあります。当たり前のことですが、自分で解決しようとせず、安易に他に頼っていてはいけません。『易経』は当たり前のことを書いています。
二、同じことを二度占ってはいけません。
『易経』「蒙卦彖辞(もうかたんじ)」に「初筮は告ぐ。再三すれば涜(けが)る。涜るれば告げず」とあります。結果が気に入らないときには、もう一度占いたいものですが、それはもう自分で決めているということですから、再度占ってはいけません。明智光秀ではないのですから……。
※明智光秀は愛宕百韻(あたごひゃくいん)で三度くじを引きました。コインを使った擲銭法(てきせんほう)のようですから、何度もくじを引いた訳ではないようです。
三、悪いことを占ってはいけません。
『春秋左氏伝』に「易はもって険を占うべからず」とあります。当たり前のことですね。悪用厳禁です。
〈当たる確率〉
当たるか当たらないかと聞かれれば、当たります。これは別に不思議でもなんでもありません。確率の問題で、当たるのです。
どんな占術でもいいですが、最初はよく当たります。びっくりするほど。これはそうした技術があるからです。詳しくはそれぞれの書籍に書いてあります。続けていくうちに確率が下がる場合があります。これは術者が余計なことをしているのです。――と、多くの書籍に書かれていますが「違います」よ。
初心者が身近なものを占えば、よく知っているので当たるだけのことです。続けていくうちに他の観察力が足りないのが露呈して技術が追いつかなくなるだけのことです。
易断のプロフェッショナルは観察力が優れています。部屋にいても外の様子から次に何が起こるか予測できます。もっともこれは易断以前の問題ですが……。
かつては高島嘉右衛門(たかしまかえもん)(1832年―1914年)のような巨人がいましたが、今はいません。他人(ひと)を占うとしても、本人が望む運命を変えることはできないからです。
『史記』「李斯伝」に「断じて行えば鬼神も之(これ)を避く」とあります。「決心して断行すれば、何ものもそれを妨げはしない」のです。
高島嘉右衛門は伊藤博文(1841年―1909年)の死を卦で予見しながらも、伊藤は死地に向かい、止めることはできませんでした。以来、他人を占うことはなくなりました。
ちなみに、今ある高島易断は正真正銘ぜんぶ「偽物」です。高島嘉右衛門いわく「占い」は「売らない」だそうで、商売にはしませんでした。しかし偽物の多いこと多いこと……。
〈易と運命〉
私たちは常に「デカルト的な考え方をしている」ので、運命とは切り離された思考をしています。
占星術(星占い)の人が「見知らぬ彗星が近づいている」と言うのと、気象庁の「百武彗星(Comet Hyakutake)が接近している」という発表と、どちらを信じますか?
※百武彗星は、日本のアマチュア天文家が発見した二つの彗星です。1995年発見の百武彗星(C/1995 Y1)と、1996年発見の百武彗星(C/1996 B2)です。ふつう「百武彗星」というと、百武彗星(C/1996 B2)のことです。
幼い少年でも気象庁の発表を信じます。つまり幼い少年であっても、すでに「デカルト的な考え方をしている」ので、占いとは実質「商売」なんです。
ただ、数は少ないのですが、たまに本物がいます。出会ったなら、私たちが「デカルト的な考え方をしている」のに運命に左右されます。変なことをしていない限り出会いませんので、ふつうは大丈夫です。
〈『易経』を読む〉
カール・グスタフ・ユング(1875年―1961年)が『易経』を紹介するのに「彼」と呼び、人格がある人間というような表現をしています。『易経』を読むことで、『易経』という人格――憂いの瞳と和らいだ笑みの「老賢人」を、私たちの心の中に存在させることができます。
〈易とは何か〉
易は、いうなれば運命の「天気」です。
楽しいとき=晴です。最高の幸せ=雲一つない快晴です。苦しいとき辛いとき=雨です。最悪のとき=ジャジャ振りの大雨で洪水です。
天気は毎日変わります。同じ天気がずっと永遠につづくことはあまりありません。幸せもそうですよね。満月が欠けてしまうように、いずれ失われます。
では、ジャジャ振りの大雨で洪水の日に私たちはどうしているでしょうか。家でTVを見ながら、見守っていることでしょう。マサカ、高波を見に海岸に行くようなことはしませんよね? ふつうは、そうです。
でも、です。そうした大事になった日でさえ働く人はどんな人でしょうか。ほんとうに自衛隊や海上保安庁で働いている皆さんは大変だと思います。
危機を未然に防ぐことが大切です。『易経』を読むことで、そうした危機管理が楽になります。
〈『易経』の言葉〉
けっこう今の時代でも使っている言葉がたくさんあります。いくつか選んでみましょう。
「積善の家には必ず余慶(よけい)あり、積不善の家には必ず余殃(よおう)あり」
――『易経』「坤 文言伝」
積もり積もってといいますか、善悪どちらも報いが子孫におよぶということです。「親の因果が子に報う」です。
「君子は豹変す」
――『易経』49「革」
君子は過(あやま)ちがあると、すぐに改めるという意味です。しかし今は悪いほうに使うことのほうが多いですね。
「麗澤は兌(だ)びなり。君子もって朋友講習す」
――『易経』58「沢」
「兌」は澤(沢)のことで、よろこびをあらわします。友人と学ぶとありますので、学校関連の名称に「沢」がつくことが多いです。
「善も積まざればもって名を成(な)すに足らず、悪も積まざればもって身を滅ぼすに足らず」
――『易経』「繋辞伝下」
いやもう実にそのとおりなのですけれど……。
次に『易経』から名前をとったものを紹介します。
「同人(どうじん)」
――『易経』13「同人」
同人誌の同人です。人と同じくする解釈で、友人が集まる卦です。
「咸臨(かんりん)」
――『易経』19「臨」
太平洋を横断した咸臨丸です。志を一つにして事に臨(のぞ)むことです。
「蹇蹇(けんけん)」
――『易経』39「蹇」
陸奥宗光(むつむねみつ)の外交記録『蹇蹇録(けんけんろく)』が有名です。外務省の機密文書を引用しているので昭和まで非公開でした。
【参考文献その他】
*高田真治訳、後藤基巳訳『易経』(岩波書店、1969年)
*松枝茂夫・竹内好監修、丸山松幸翻訳『易経』(徳間書店、1996年)
*ジェームズ・フレイザー『金枝篇』
*中野美代子訳『西遊記(一)』(岩波書店、2005年)
*ポール・デュカス『魔法使いの弟子』
*陸奥宗光『蹇蹇録』(岩波書店、1983年)
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