「東アジアの思想」という話-2
【第三の視点】
本来であればここからエドワード・エルリックのように真理の扉である「歴史」を開くのですが、その前に「第三の視点」についてお話しましょう。
※荒川弘『鋼の錬金術師』の主人公です。傑作です。
「第三の視点」とは、ディベートルール(4)の「第三者を説得する」ための証拠資料(エビデンス)を使った、賛成(肯定)か反対(否定)かを判断する第三者から視点です。
cf.
瀧本哲史『武器としての決断思考』(2011年)P58、P196
https://twitter.com/ichirikadomatsu/status/639319935567577088
どうして歴史を開くのに「第三者から視点」が必要なんでしょうか? それは「100%正しいことなんてない」からです。「そんなこと当たり前じゃあないの?」――そうです。そうなのですが、「自分が信じていることが100%正しい」と勘違いしてしまう人があまりにも多いのです。そして、危険なことに、それを疑わなくなってしまうんです。
「議論する相手を論破したり、相手側の意見を変えさせる必要などないのです」
――瀧本哲史『武器としての決断思考』(星海社、2011年)P59
冷静な、第三の視点から物事を判断するには、証拠資料(エビデンス)が必要になります。証拠資料(エビデンス)を確認せずに、常識で答えるのは、過去データの引用に過ぎません。それは感情論です。
【天の時・地の利・人の和】
『孟子』に「天の時・地の利・人の和」があります。
「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」
――『孟子』「公孫丑下」
天候を利用して攻めるとしても堅牢な土地には敵いませんし、堅牢な土地であっても人が一致団結することには敵いません。三つ揃えばラッキーです。
この「天の時・地の利・人の和」は、「時代・背景・人物」つまり「時期・環境・人格」です。これらの半分近くは運に左右されます。
※ただし、『史記』に「断じて行えば鬼神も之を避く」とあるように、半分を超えることはありません。
運に助けられ生き残ってきた人は、その常識で今後も大丈夫だと考えてしまいがちです。極端に言えば、天動説を信じている人が宇宙に行くとしたらどうなるでしょう? もう大変なことになりますよね。
そうした「大変な事があるかもしれない」と、常に疑い、確かめることが大切です。
【パラダイムシフト】
現在、天動説を信じている人はいません。中にはいるかもですが、ごめんなさい。そうした人とは話はできませんので……。
さて、過去に天動説を信じている人は、地動説に論破された時どうしたでしょうか? まま相手を火刑にしちゃったんですが……考え方を変えたでしょうか? ――いいえ。クリストファー・コロンブスが死ぬまでアメリカをインドだと思っていたように、最後まで天動説だと思っていました。
考え方を変え、悔い改めた訳ではありません。単に死んだんです。
当時の模範(パラダイム)である天動説では説明のつかないことが明らかになるにつれ、その問題を解決できるので「やっぱり地動説(新パラダイム)なのでは?」と考える人が多くなり、やがて天動説(旧パラダイム)を信じていた人がいなくなってしまったんです。
こうした旧パラダイムから、新パラダイムに移行することを「パラダイムシフト」と言います。なお、ガリレオ・ガリレイの裁判が誤りであるとカトリック教会が認めたのは1992年のことです。そして、2008年にようやくローマ教皇は地動説を公式に認めました。ちなみに、アポロ11号が月面着陸したのは1969年(!)です。
パラダイムシフトは、常にあるということです。そして、現在そうなりつつあるのかもしれないのに、過去データの引用である常識だけで判断するのはとても危険なんです。
ですから、必ず「第三の視点」をやしなって、誰と話すときでも、本を読むとしても、冷静に判断ください。
【参考文献】
*荒川弘『鋼の錬金術師』(スクウェア・エニックス、2001年―2010年)
*瀧本哲史『武器としての決断思考』(星海社、2011年)
*トーマス・クーン、中山茂訳『科学革命の構造』(みすず書房、1971年)
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