「東アジアの思想」という話-22
【『荘子』の思想的世界-1】
《荘子》
道家の荘子は「そうし」と読みますが、孔子の弟子に曾子(そうし)がいるので、あえて「そうじ」と濁って読むのが文人のカッコイイ習慣です。
儒家の曾子が生きた時代は春秋ですから、戦国時代の荘子のほうが後人になります。
とはいえ、先の老子と同じく荘子の生涯も詳しいことは分かっていません。
「荘子は蒙人(もうひと)なり。名は周。周嘗(かつ)て蒙の漆園吏たり。梁(りょう)の恵王、斉(せい)の宣王と時を同じうす。其の学は闚(うかが)わざる所無し」
――『史記』列伝第三「老子韓非列伝」※玄侑宗久『荘子』(NHK出版、2015年)P9
「荘子は宋の蒙(今の河南省)の人で、名前は周です。荘周はかつて蒙の漆園の役人でした。梁の恵王(けいおう)や斉の宣王(せんおう)と同時代人です。その学問は、うかがっていないところがないほどでした」
うかがう=のぞくですから、見ていないところはない=ぜんぶ知っているとなります。荘子はあらゆる学問に通じていたようです。
梁の恵王(けいおう)は、戦国時代の魏の王です。大梁に遷都したので、魏は梁とも呼ばれます。「五十歩百歩」の故事が有名です。禅宗の達磨(だるま)に似たような故事がありますが、別の機会にしましょう。
戦国時代の斉は、田斉(でんせい)です。周により太公望が封じられた斉は、田氏に乗っ取られてしまいました。宣王(せんおう)は学者を優遇したので、学問が栄えました。「稷下の学(しょくかのがく)」と表現されています。「稷」は斉の都城の西にあった山の名もしくは、門の名だそうです。「稷下の学」には孟子や荀子もいたとされています。
「漆園の吏」がよく分からないようです。荘子自身は『荘子』に「役人になる気はない」と書いています。玄侑宗久(げんゆうそうきゅう)によると「実は一度経験しているからではないか、という見方もできます」としています。
※玄侑宗久『荘子』(NHK出版、2015年)P9
あるとき、楚(そ)の王に宰相のポストをどうぞと、招聘(しょうへい)されました。しかし、荘子は「剥製になってありがたく祀られる亀より、泥の中で生きながらえる亀のほうがいい」と断ったそうです。
そんな感じでしたから、出世とは無縁でした。けっこう自由に生きたのでしょう。
荘子は、弁説巧みな名家(論理学者)の恵施(けいし)と交流があったようです。恵施は、宋の生れで、魏の恵王・襄王に仕えました。
唐代になると、皇帝玄宗によって、荘子は「南華真人(なんかしんじん)」という神様にされてしまいます。書の『荘子』は『南華真経(なんかしんきょう)』と呼ばれるようになりました。なお、玄宗は楊貴妃で有名ですね……。別の機会にしましょう。
《『荘子』》
老荘思想の『老子』と併称される『荘子』は、現行では内篇7篇・外篇15篇・雑篇11篇=合計33篇からできています。『老子』は五千字ほどですが、『荘子』は六万五千字ほどあります。もっとも、『史記』や『漢書』にはもっといっぱいあったと書かれています。
内容は、九割が寓言(ぐうげん)で、七割が重言(じゅうげん)、あとは残りの卮言(しげん)です。足すと100%を超えますが、適当です。
〈寓言〉
寓話です。たとえ話ですね。
〈重言〉
人に重んじられている言葉です。先人の言葉を引用して重みをつけています。
〈卮言〉
卮は盃(さかずき)です。酒が入ると傾き、無くなると仰向きます。臨機応変な言葉です。
ともあれ、荘子は、万物は斉同で生死などの差別を超越すると説いています。適当な割には、真剣にデカイことを話しています。
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