どうしてぼくは事象の地平面にいるのだろうか-1B

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どうしてぼくは事象の地平面にいるのだろうか-1B

1.B面

 雨……。雨だ。
 ……雨音が聞こえた。……かなりひどい雨だ。……水煙で何も見えない。
 ――’Automatic start up, <BS>.’
 機械生体機能(MBF)の一つが自動起動した。
 違和感。いつもなら、角膜を傷つけたような感覚があるはずが、ない。
 ――…
 ――<Biological Status>
 ――Leukocytes… [5360.00] x10^2/uL
 ――Erythrocytes… [502] x10^4/uL
 ――Hemoglobins… [15.0] g/dL
 ――Hematocrit… [42.7] %
 ――γ-GT… [1970] U/L
 ”Leu-ko-cy-tes”……レウ-コ-サイ-テス……違う、ルーカサイテス……とは?
 それに答えるように、後房型有水晶体眼内レンズの機械生体機能(Mechanical Biological Function)が再起動(reboot)した。昔に眼窩壁骨折した目の奥が痛む。
 ――’White blood cells (WBCs)’
 答えが、左の眼内レンズ(Intraocular Lens)に表示された。
 ホワイト・ブラッド・セルズ……白・血・小部屋。セル? ……白血球か。とすると”Erythrocytes”は赤血球かしら。ヘモグロビン……。
 全身に痛感が広がった。
 同時に、外部情報を記録し始めた。数値が著しく変化して読み取れない。
 ――Atmospheric temperature… [ *** ] dC
 ――Relative humidity… [ *** ] %
 ――Atmospheric pressure… [ *** ] hPa
 ――Indicated Altitude… [1690.3] m
 ――Alert!
 警報(アラート)!
 確定した指示高度(Indicated Altitude)が一七〇〇メートルからどんどん増加していた。
 右ILに拡大された姿勢指示器(Attitude indicator)の上下が反転していた。
 つまり、雨が降っているのではなく、身体が「上空に落下」しつつ、水滴がかかっているということだ。
 視界が開いた。広大な流沙の河に、水蒸気爆発したらしい痕跡があった。吹き飛ばされたらしい。
 赤い光が一つ。二つ。眼光だ。人影が見える。口元だけが笑った。
 第二波。

 角膜の痛みでグッド・ルッキング・ガイ(ハンサム)の目が覚めた。身体の内部に埋め込まれた機械生体機能(MBF)の警報だ。実際に目や視神経を傷つけている訳ではないのだが不快だった。だからこそ警報として成り立つのだが、再起動(リブート)するたびに目の奥が痛んだ。
 ――〈生体情報〉
 ――白血球— [5360.00] x10^2/uL
 ――赤血球— [502] x10^4/uL
 ――ヘモグロビン— [15.0] g/dL
 ――ヘマトクリット— [42.7] %
 ――γ-GT— [1970] U/L
 数値は夢ではなく確かな異常だった。備考によると男性の白血球は39〜98×10^2/uLだからおよそ一〇〇倍ある。γ-GT(ガンマグルタミルトランスフェラーゼ)においても基準値は12〜87だ。眠りながら歩いている間に、免疫機能がフル操業していたらしい。
「予定通りだ」
 美しい顔に似合うテノールの甘い声だった。とはいえ雪中行軍では誰にも聞かれることはなかった。
〈過度のストレスがみられます。適切な休憩をとるべきです〉
 上空の航宙母艦に残してきたパーソナルコンピュータ〔レティ・レティシア〕が警告したが、戦闘宇宙服(バトル・スペーススーツ)の衛生機能(メディカル・パック)をキャンセルした。
「却下。魔女に気取(けど)られる可能性が高い。わたしならそうする」
 魔女は敵だ。母艦のマザーコンピュータをハッキングして惑星〔三千年〕に逃げた。流刑が解かれる三千年を待たずして魔女は復活するだろう。それだけは避けなければならない。
 ハンサムが引きずっているソリには緑髪の美少年が寝かされていた。宇宙服の胸のイエローランプが点滅している。冬眠モードだ。
 視界はほとんどないに等しかった。遠くに光が見えるがそれもおぼろげで、戦闘宇宙服(バトル・スペーススーツ)に連動させた機械生体機能の情報がなければ遭難するのは確実だった。
〈警告。通信切断まであと一分〉
「レティ、再計算しろ」
〈現在の速度であれば八時間十七分五十九秒二三です。なお、二等書記官(セカンド・セクレタリ)のみで行くならば三五・九一パーセントの時間で到着します。少尉(セカンド・ルテナント)を破棄することをおすすめします〉
「それはダメだ」
 理由があった。魔女から逃亡するために、二等書記官の認証は”MIA”——つまり行方不明(Missing in action)になっている。このまま航宙母艦に戻ったとしても、認証されなければ帰ることができない。魔女は航宙母艦の艦長(キャプテン)である大佐(キャプテン)の認証を奪っているから、それを利用することも可能だが魔女が簡単に渡すとは思えなかった。惑星〔三千年〕で認証を偽造することもできるが、”MIA”を複製しても意味がない。
 現状で確認された認証は、宙軍大佐(キャプテン)と空軍大尉(キャプテン)と空軍少尉(セカンド・ルテナント)と、一等書記官(ファースト・セクレタリ)と二等書記官(セカンド・セクレタリ)の五件だけだった。他の乗員・乗客一千人は殺されている。もっとも、空軍大尉は軍事裁判中に脱走したために認証は停止されているし、一等書記官は未開の星である惑星〔三千年〕で休暇を三千年過ごすつもりらしく行方不明だった。二人とも魔女とやりあうつもりはさらさらないだろう。それに、もし大佐(キャプテン)が生きていた場合、最悪こちらを罪人にする可能性があった。
 二等書記官はいちおう公人たる外交官だが、軍人ではない。魔女の処分は送致していた軍人が行うべきだろう。
〈通信切断まであと十秒。八、七、六……〉
 情報の間(はざま)だった。機械生体機能の情報を更新してはいるが時間の問題だった。それは……。
〈注意。少尉(セカンド・ルテナント)の通信が再接続されました〉
「何?」
 少年の戦闘宇宙服(バトル・スペーススーツ)が起動していた。二等書記官の通信が切断される警告から自動起動したらしい。
「今すぐ切るんだ! レティ!」
 少年の目が開いた。
「……よかった……生きていたんですね」
 二等書記官が手動で動力源ごと通信をカットした。少尉の眉が白くなる。氷点下の世界では死を意味する。
「レティ・レティシア。少尉(セカンド・ルテナント)の宇宙服(スペーススーツ)をこの世界の防寒着に変成しろ」
〈凍死する確率が三一・二五パーセント増えますが、よろしいですか?〉
「許可する。あまったエネルギーを生体保存に使え」
「……よかった」
 宇宙服(スペーススーツ)が、ウィンターウェアに変成された。静かに眠っている。
「少尉(セカンド・ルテナント)の記憶を消せ」
〈拒否します。憲法第十一条にさだめられた基本的人権の享有を妨げる重大な罪です。記憶情報の消去は刑法第二〇四条傷害罪により禁止されています〉
「緊急事態だ。情報の間(はざま)で真名(トゥルーネーム)を話されたら帰られない」
〈違法行為と認識したうえで、記憶情報の消去を行いますか?〉
「違法行為と認識している。行え」
〈記憶情報の消去を行うと二度と戻りません。バックアップすることをおすすめします〉
「バックアップはしない。消去しろ」
〈再度確認します——〉
「認識している。行え」
〈——違法行為と認識したうえで、記憶情報の消去を行いますか?〉
「違法行為と認識している。行え」
〈消去する記憶情報の種類・期間を選択してください〉
「人物に関するものすべてだ。選択」
〈選択項目にあやまりがなければ消去を実行します。この行為を行うと二度と元には戻りません〉
「消去(デリート)」
〈消去まであと二十秒。十八、十七……〉
〔レティ・レティシア〕の空虚な音声が響いた。
「少尉(セカンド・ルテナント)の情報を固定しろ。このまま惑星〔三千年〕に送る」
〈消去完了。——情報を記録しました〉
「老賢者(ザ・ワイズオールドマン)の位置を更新しろ」
〈更新しました。——警告。二人とも死亡する確率が二一・五四パーセント高まりました。少尉(セカンド・ルテナント)を破棄することをおすすめします〉
 ——どうして再度警告する? もしかして……。
「通信を切断(カット)しろ」
〈この通信を切断すると、再接続することはできません。切断するべきではありません〉
「通信を切断(カット)しろ」
〈警告。この通信を切断——〉
「切断(カット)だ」
〈通信切断まであと十秒。八、七、六……〉
 二等書記官が歩みを進めると、吹雪が強くなった。
 ——情報の間(はざま)で目覚めるとは……。少尉(セカンド・ルテナント)には悪いが、生きて帰るためだ。それに記憶がなくとも任務を忘れたりはしない。軍人だからな。
 二等書記官がもつ外交官特権には、記憶の消去も入っていたが実際に使ったのは初めてだった。一等書記官が自分自身に使っているのを何度か見ているが、あまり興味はなかった。悪い記憶でもそれは個人の人生を彩るものだからだ。もっともPTSD(心的外傷後ストレス障害)になっているのであれば治療として使うのは吝(やぶさ)かではなかった。
 人間関係のすべてを消去してから、少尉が故郷に残してきた恋人のことを思い出した。
 ——別れたと言っていたが、本当にもう二度と会えないとはな……。罪なことをしてしまった。
 感傷にひたる間に、風のないところにでた。別に迷ってはいなかった。遠くの光は少しではあるが輝きを増している。
 足下に硬いものがあった。凍った雪ではなかった。ただ、死があった。
 無造作に死体があった。無数に。
〈お前は誰だ?〉
 女性が脳に直接語りかけてきた。
 ——深淵の女たち(ザ・ウィメン・オブ・アビス)か……。魔女の策略? いや自然現象だろう。
〈魔女とは何だ?〉
 二等書記官は何も答えず、歩みを進めた。死体を踏みこえる。ソリで骨が折れる音がした。
〈魔女に落とされたのか?〉
 幾人も幾人も全裸の女性がいた。そのどれもが美しく豊満な胸をしていた。
〈お前は楽しまないのか?〉
 胸をつきだす深淵の女たち。答えれば横たう死体と同じ結末になるだろう。
〈この世界の者ではないな。異世界から来たのか、来訪者〉
〈ようこそ来訪者〉
〈来訪者の名は何というのだ?〉
〈その名を告げぬなら、その記憶(メモリ)をもらおう〉
 女の一人が二等書記官の右手首をとって乳房にあてた。生理的に抵抗できない魅力だった。
 ——右手の神経を一時遮断しろ。
 命じられた機械生体機能が神経を遮断した。血の気がひく。
〈こやつ術を使うぞ!〉
〈手をもらっておけ。術者の手は楽しめる〉
〈そうしよう〉
 その瞬間、女が右手を握り潰した。
〈そうしよう〉
 肘前で切断された前腕が落ちるが、地面につく前にもう一人の女が受け止めた。流れる血を受ける女もいる。
〈返して欲しくば名を語るがいい〉
 もし、真名(トゥルーネーム)を知られたら、深淵の女たちが飽きるまで放すことはない。それを回避するためには、この情報の間(はざま)で通信は厳禁だった。とはいえ、予測はしていても不幸は重なる。
〈この子の記憶(メモリ)はどうかしら?〉
〈人の記憶(メモリ)がないわ〉
〈ないわ〉
〈人の記憶(メモリ)がないなら人ではなし〉
〈人でなし〉
 ようよう死体がなくなり、雪氷の地を歩み出した。安堵した二等書記官が深呼吸した。それがいけなかった。
〈助かったと思った瞬間不幸にするのが楽しみでね〉
 まだもう一体死体が、残っていた。振り向かず二等書記官が歩んだ。ロトの妻。
〈お前に名を与えよう。〈何か(サムシング・ウィケッド)〉〉
〈〈何か(サムシング・ウィケッド)〉〉
〈〈何か(サムシング・ウィケッド)〉〉
 吹雪が舞い、深淵の女たちの声が消えた。
「止血しろ。消毒も」
 命じられた戦闘宇宙服(バトル・スペーススーツ)が衛生機能(メディカル・パック)を実行した。本来であれば自動で起動するはずだが、深淵の女たちの呪いからか作動しなかったらしい。
 握り潰された切断面だったが、不思議と鋭利な刃物で切られたようだった。出血は少ない。
「レティ・レティシア、右手を再生しろ。レティ? ……ふう」
 通信は切っていた。再接続すれば、また深淵の女たちがやってくるに違いない。
 片腕のまま、ソリをひいた。
 やがて、雪も止み、光がみちてきた。異世界の壁だった。固定された壁ではなく情報の壁だ。
 戦闘宇宙服(バトル・スペーススーツ)が白い迷彩服に変化した。一歩一歩あゆむごとに、二等書記官の様相が変わっていった。後房型有水晶体眼内レンズが眼鏡に、通信システムが衛星通信機材から手帳に変化した。風化する。
「眼鏡の情報は固定しろ」
 もともと弱視らしい。そのため情報がなくなれば、生活できなくなってしまう。眼鏡はそれ以上情報が失われることがなかったが、ソリは軽量金属から重い木材になっていた。顔を歪めた。まだ先は遠い。
 宇宙工学でつくられた戦闘宇宙服(バトル・スペーススーツ)は、甲冑に変化していた。いくらなんでも重すぎる。
「窯変させましょうか?」
 ふいに背中から声がした。闇色の服をまとった緑髪の美少年だった。少尉と同じ顔をしている。
「君がでてくるということは……」
「相当情報がない世界のようですね。……深淵の女たち(ザ・ウィメン・オブ・アビス)ですか。これはわたしには再生できないですね。この世界のもので構築する必要があります」
 少年が呪(しゅ)をとなえると甲冑をローブに変化させた。肩が軽くなったので首をまわした。
「〈何か(サムシング・ウィケッド)〉」
 そう言った瞬間、腕から水に墨汁を溶かしたような煙がでてきた。
「厄介ですね。解呪には高度な数式が必要です」
 二等書記官の横にならんだ少年が別の呪を口にすると、すっと消えた。しかし……。
「この世界の老賢者(ザ・ワイズオールドマン)なら解けますが、呪われた者には会わないですからね。深淵の女たち(ザ・ウィメン・オブ・アビス)が飽きて捨てれば手は回収できるでしょうけれど、いつになることやら……。あとは——」
「——レティ・レティシアか?」
「いいえ。帰ることができればどうとでもなりますが、一等書記官(ファースト・セクレタリ)です」
「はあ?」
「あの女(ひと)は外交官になる前は世界最古の職業をしていましたから、解呪の専門家です」
「世界最古の職業と解呪の関係が解らない」
「房中術(ぼうちゅうじゅつ)の一種だそうです」
「そんな房中術はない」
「レベルとしては女教皇(ザ・ハイエロファンテス)ですから世界最強です」
「あの女(ひと)の外交官実績はもしかして、世界最古の職業とそのレベルでなしえた? よくバレなかったな」
「記録によれば、二等書記官(セカンド・セクレタリ)時代に一度更迭されています。たぶんそれが原因でしょう。今回も馬銜(はめ)を外して楽しんでいることでしょう」
「頭が痛い。……ちょっと待て。わたしたちがこの世界の人間と接触したら——」
「——ある種あなたたちは無症候性キャリアですから意図せず疫病を蔓延させ、よって世界が破滅します。そのための解呪です。ほとんどあらゆる術式を解除できるはずです」
「趣味と実益……ひょっとして君も?」
「私たちには興味ないようです。仲良くされていたので御存知だと思っていました」
「あの女(ひと)もしかして——」
「——説曹操、曹操就到。曹操の話をすれば、曹操が来ますよ」噂をすれば影。
「そうだな……あとどれぐらいある?」
「ざっと六時間というところでしょう。替わりましょうか?」
「頼む」
 少年が懐から白紙をだすと、手首を軽くまわして重ねて小さくすると人の形に折った。八体の人形になる。古術でいうところの式神(しきがみ)だった。
 二等書記官がソリの少尉の隣に横たわった。少年は御者のように傍らに座っている。
「名前を何にする?」
「JCでは?」
 少年のいうJCとはイエス・キリストだ。
「縁起でもない。磔(はりつけ)にされてたまるか。どちらかと言うと君はイスカリオテのユダだろう?」
 裏切者だ。
「確かに敵(かたき)の妻と懇(ねんご)ろになりましたが、それは敵(かたき)が悪かったのですよ。あれだけ美しいのにちっとも構っていないのだから自業自得です」
「恋はままならぬか」
「恋を語るものは、諺(ことわざ)を含め、否定的な戒めの言葉が多いです。ですが、それ以上の親愛をもって語られています。恋人の浮気を許せない人もいるでしょう。ですけれど、どうしようもない恋もあります。不可抗力の、とりとめもなく強い何らかの作用で、人は動かされます。それは別に異性だけではなく、同性に対しても物や事象に対しても起こりえます」
「哲学者(フィロソファ)だね」
「それはあなたでしょう? 賢者の石(フィロソファズ・ストーン)を錬成したのですから」
「昔のことさ」
 晴れた頭上には、星が瞬(またた)いていた。高速で移動している。人工衛星になった航宙母艦だった。必要なコードを入力すれば、自動で航宙機が下界まで降りてくる。しかし、魔女によって三千年は動かない。
「JC……イエス……ヨシュア。ヨシュアにしよう」
 イエスもジーザスもヨシュアに由来する。クラムスコイ。
「わたしはフォン・ホーエンハイムにでもするか……」
「古の錬金術師ですね。ホーエンハイム……高い家ですね。高家といえば吉良義央。吉良だけに人殺し(キラー)?」キラークイーン。
「人間に興味はない。少尉(セカンド・ルテナント)を老賢者(ザ・ワイズオールドマン)に届けた後は時を待つ」
「三千年もですか?」
「どうせあの女(ひと)がとんでもないことをするに違いない。呪いを解いたらしばらく眠るさ」
「まるで吸血鬼ですね」
「この世界にもいるのか? あんな化物が」
「いるでしょう。それにいなくても魔女がつくるでしょう。厄介事はいつものことです」
「……魔女が殺めた乗員・乗客は全部で何人だ?」
「一〇二五名です。乗員は六五三名、残り乗客は三七二名。うち囚人が十三名。その一人が魔女です」
「レティの話では、一〇〇〇人ちょうどだった。どうして二五人も少なくなる? 考えられるのは、意図的にデータを改変したか、だな。しかし、それだと質量の問題がある」
「『冷たい方程式』はクリアしていますよ。あの航宙母艦、全長六〇キロメートルもあるんです。でなければあれだけ光りませんよ」
 もはや見えない。
「六〇キロ?」
「一つの街ですね。マンハッタン島一〇個分の大きさがあります。航宙母艦というよりは要塞です。前の大戦の負の遺産ですよ。三重(トリプル)反応炉で宇宙の果てまで飛べます」
「で、囚人送致船か」
「一つの世界を消し去るぐらいはできるでしょうね。それだけ強力です。ですから、魔女が使うには大事(おおごと)です。仮に大佐(キャプテン)の認証で駆動させたとしても、戦略システムを起動した時点で本国に同時認証されますから、流刑は凍結され処分されるでしょう」
 そうなれば、空が戦術爆撃機で真っ黒になるだろう。この世界ごと処分するに違いない。
「同時認証を回避するには?」
「座標を限定して、本国の認証を偽造する方法があります。しかし、マザーコンピュータを騙すのは不可能に近いです。あなたたちと違う機械の人格ですからね。そして、私たちとも違うので、理解できません。しかし、三〇〇年もあればコンピュータはつくれますから、プラスアルファとして五〇〇年もあればできるでしょう」
「もしくは、本国のマザーコンピュータをコピーするか……」
「可能性としてはなくはありません。けれど、本国のコピーは市民権という概念があります。魔女の独裁を認めるはずはありませんから、つくったにせよ魔女自身が排斥されます」
「いっそのこと、航宙母艦を建造するほうが楽か……」
「ですね。反応材は希少ですが、練成できなくはない。とはいえ、書類上は惑星〔三千年〕に流刑になっています。何もせずに三千年待つこともできます」
「それはない。魔女は生き方なのだから。あれが、魔女が、一〇〇〇人もの血を浴びたのち待つだろうか。それは否だよ。シリアルキラーが殺しを止められないように、魔女はこの世界の人間を殺めるだろう。とはいえわたしに関係はないが」
 外交官だが巻き込まれたにすぎない。そして、この世界の法は万国公法によって、使用できない。
 話をしている間に夕闇がせまってきた。雪が降ってくる。
「そろそろ老賢者の館です」
 小さく見えていた光は窓からこぼれるランプの灯火だった。
 ソリが停まると、式神(しきがみ)が紙に戻っていた。老賢者の地ではあらゆる術が許可なく施せない。ヨシュアが黒い影となってフォン・ホーエンハイムの背中に消えた。
 片手で不器用にソリをひき、五キロメートルも歩いただろうか。ようやく門の前に到着した。左手で、ベルを鳴らそうとするが、触れることすらできなかった。右手の黒煙が邪魔していた。水と油だった。
 立ち尽くすフォン・ホーエンハイムの血の気がだんだんとなくなっていった。生気を吸われているのだろう。〈何か(サムシング・ウィケッド)〉としての代償だった。老賢者に会うことは絶対にできないのだ。
 少尉を屋敷前に捨て置くと、左手で指折り数えた。
「遯が漸に之く(とんがざんにゆく)か……」
 易を立てたらしい。艮下乾上〈遯〉——いわゆる〈天山遯(てんざんとん)〉は逃れ退くことを意味している。引き際を過(あやま)ものは生き残れない。
「悪く思うなよ」
 フォン・ホーエンハイムが冷たくなった少尉の懐から金貨を取り出した。
「〈遯(とん)〉」
 雪風に消えた。

 時の流れの分水界(ぶんすいかい)から下界に降りるのは簡単だった。そもそもフォン・ホーエンハイムは、〈何か(サムシング・ウィケッド)〉という邪悪なものになってしまっている。気をつけなければ地の底にまで落ちるだろう。
「”Long is the way and hard, that out of Hell leads up to light.”」
「『地獄より光にいたる道は長く険しい』——ジョン・ミルトン『失楽園』(パラダイス・ロスト)第二巻四三二〜四三三。フォン・ホーエンハイム、この台詞は悪魔サタンの言葉ですよ?」
「『アエネーイス』ではシビュルラがアエネーイスの案内を、『神曲』ではウェルギリウスがダンテを案内した。『失楽園』では誰がサタンの案内をするんだ?」
 ヨシュアが作った紙飛行機で滑空していた。とはいえけっこう雑につくっているのか高度を落とすたびに何枚かひらひらと紙が飛び散っている。
「ブラックジョークがお好きですね。どちらかといえばファウストを案内する悪魔の気分ですよ。ゲーテ版の『ファウスト』のね」
『ファウスト』にはいろいろな作品がある。ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの作品ではファウストは救済され、悪魔メフィストフェレスは魂を手に入れることができない。
 最後は紙のパラシュートに変形させて無事着陸した。風遣い(かぜつかい)のヨシュアはフォン・ホーエンハイムの横に浮かんでいた。
「この歳で紙飛行機に乗るとは思わなかった」
「読子・リードマンに頼めばいいのに」
 ヨシュアが一回転した。
「この世界にいるのか?」
「二〇〇年後ならいるかもしれませんよ。——いましたよ」
 一等書記官(ファースト・セクレタリ)だ。
「〈観(かん)〉」
 坤下巽上〈観〉——いわゆる〈風地観(ふうちかん)〉による遠見(とおみ)だ。
 自称十八歳(成人済)の女性が走っていた。涙を流しながら必死に。上黒下白の下着姿で。
「何をしているんだ? あの女(ひと)は」
 叫びながら走る一等書記官の後方に土煙があった。追跡者(チェイサー)が同じスピードで追いかけている。
「たーすーけーてー! どうして私がこんな目に遭わなくちゃいけないの? なぜなぜどうしてよどうしてなのどうして」
 フォン・ホーエンハイムが読唇術で読んだ。
「叫ぶ力があるなら、走ればいいのに」
 ヨシュアの言うとおりである。喋りながら走るランナーはいない。
「たーすーけ——」
 舌をかんだらしい。その瞬間、視線を感じたのかフォン・ホーエンハイムたちの方へ方向を変えた。親の仇(かたき)を見るような形相だった。
「美人が台無しだ」
 それにはヨシュアも同意せざるをえない。揺れる胸はFカップはあるだろう。やや垂れ目で、左に泣き黒子。学生時代はクラブ歌手をしていた美しい嬌声。そして、エロい。とにかくエロい。
 現状の一等書記官は、上下異色の下着姿のまま疾走していた。
 追っているのは、巨大な牛だった。一等書記官の身長は一七五センチメートルだから、概算で四倍の七メートル以上あった。
 近づくにつれ、一等書記官も(フォン・ホーエンハイム(二等書記官)だと分かったのか笑みを浮かべた。逆に、フォン・ホーエンハイムはどうしようもないやるせなさを感じていた。下着姿の一等書記官が背負っているのは、仔牛だった。ロープでグルグル巻きである。
「たぶんですが……」
 と、ヨシュアが思考した。
「言うな」
「食欲に負けて仔牛を略取(りゃくしゅ)したものの、母牛に気取(けど)られて今の結果になったと思われます」
「言うな」
「どうしてあの女(ひと)は仔牛を手放さないのでしょう?」
「言うなと言うのに。……それはだな、刹那主義なあの女(ひと)のことだ。忘れているんだ。手に入れたものは自分のもので自分を攻撃するものは敵という思考なんだ」
「頭の悪いことで……」
 ヨシュアが紙飛行機を折った。
「それが知能指数は恐ろしく高いんだ」
「ご冗談でしょう」”Surely You’re Joking, Mr. Feynman!”
 地上近くを紙飛行機が飛んでいった。
「仔、牛、を、放、せ」
 まだ聞こえる距離にはなかったが、唇を大きく表現した。視力二〇・〇の一等書記官が視認すると、仔牛のロープを手刀で切った。が、母牛の勢いは止まらない。激昂で思慮がなくなっているらしい。
 ヨシュアの紙飛行機が仔牛をひろい、母牛の蹄(ひづめ)から逃がした。
 身軽になった一等書記官が距離を広げると、立ち止まり振り返った。
「この私をなめるんじゃあないわよ!」
 母牛の頭上に美麗な施術式が浮かび上がった。
「頭の悪い……」
 ヨシュアが言うのも無理はない。無詠唱の〈反応消滅(リアクションデリート)〉だった。
「〈巽が鼎に之く(そんがていにゆく)〉」
 フォン・ホーエンハイムが、〈反応消滅(リアクションデリート)〉の爆風を巽(風)で制御しつつ、鼎(かなえ)となるフォン・ホーエンハイムとヨシュアと一等書記官を固定した。
「私の牛飯〜〜!」
 牛の親子は吹き飛ばされてしまった。鼎の足は三本、つまり三つまでしか固定できない。
「〈強欲(グリード)〉!」
 懲(こ)りもせず一等書記官が七つの大罪の〈強欲(グリード)〉を使った。空中高く舞った牛の親子が強引な欲にとらわれ重力加速度を無視して一等書記官の頭上に落ちた。
「一等書記官(ファースト・セクレタリ)。何をしているのです?」
 牛の親子に埋没した一等書記官が顔をあげた。
「私は朝食を用意していただけで、他意はないわよ。そういえば最近牛丼食べてないわねと思ったら、たまたま目の前に美味しそうな仔牛が落ちてて……」
 もちろん、仔牛は落ちていない。一等書記官は高等術式を覚える知性はあっても嘘をつく能力は低かった。
「〈反応消滅(リアクションデリート)〉なんて使ったら魔女に感知されますよ?」
「えっ? 大丈夫よ。ここらへん一帯は私の結界で守っているから」
 白人がアメリカ・インディアンにいう口調で土埃をはらう一等書記官が述べた。なお、天然痘を一因としてインディアンは絶滅しかけた歴史がある。
「〈観(かん)〉」
 遠見すると、確かに結界になっていた。
「かなりの高等術式ですね」
 フォン・ホーエンハイムの視覚を借りたヨシュアが、あきれ声をだした。ところどころ穴になっているのは、〈反応消滅(リアクションデリート)〉の結果だろう。熱反応から原子レベルから完全消滅させる。灰も残らない。
 ——魔王さえ殺める〈反応消滅(リアクションデリート)〉を一日に何度打っているのだ?
 ヨシュアにとって一等書記官(ファースト・セクレタリ)は、化物(モンスター)だった。とても普通とは言えないが、それがまた一等書記官たる所以(ゆえん)なのだろう。
「あー、あなた、火貸してくれる?」
 シガリロを片手に、高度な爆裂術式を安易に使う一等書記官は不器用でもあった。
「〈離(り)〉」
 フォン・ホーエンハイムから火(離)をもらった一等書記官は、仄か火(ほのかび)で自分の上にあった巨大な母牛を単純ローストした。どうあっても喰うらしい。
「クリュッグはないの?」
 超のつく高級シャンパンだ。異世界で酒を語るのは野暮だ。もちろん、仔牛料理が待っている。

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