「沈黙」という話-4
【ザ・ミッション】
宣教師は英語で“missionary”で、“the mission”をする人です。この〈ザ・ミッション〉はキリスト教、特にカトリック教会では深い意味をもっています。
言葉としての“mission”の元は、ラテン語の“missile”だそうです。英語になって、ちゅどーんのミサイルになりましたが、“miss-”“mitto”は“to send”で、“send”は「送る・届ける、派遣する」といった意味があります。
cf.
研究社『リーダーズ英和辞典(第2版)』(2001年)
宣教師は伝道師とも言いますが、使命(ミッション)からキリスト教の教えを伝え宣(の)べて入信を促す人です。単に伝道のことをミッションとも呼びます。
対するは、カトリック教会では「信者以外の異教徒は人間ではない」生物です。人権などありません。「異教徒はおよそ人間らしい生き方をしていない」というのが、カトリック教会の考え方です。伝道(ミッション)はそうした人の形をした生物に、人の道を伝える立派な仕事です。#blackjoke
人の形をした生物に、およそ人の理など解ろうはずがありません。伝道師はその身がどうなろうと、されど伝道(ミッション)に行くのです。文字通り命懸けで。
カトリック教会において、〈ザ・ミッション〉はそうした命懸けの意味があります。言い換えるなら試練であり、業であり、糧です。そしてその〈ザ・ミッション〉は簡単なものではありません。絶対にできないような〈ザ・ミッション〉がそれぞれの信者に与えられます。――あっ違いますね。「絶対にできない」〈ザ・ミッション〉が与えられます。
どう考えても何をしようとも何があろうとも〈ザ・ミッション〉は「絶対にできない」のです。それを、します。もう無茶苦茶です。「絶対にできない」のにするのです。神の御名のもとに。
「絶対にできない」のですから、ほとんどが〈ザ・ミッション〉の過程で殉教します。教えにつくしてその身命を犠牲にします。カトリック教会の道は殉教者の血で染まっています。宣教師は先人の殉教者を崇敬しつつ血の道を歩みます。
※崇拝ではありません。敬っていますが、拝んではいません。
なお、「絶対にできない」のに、たまたま運良く何か不思議な全く理解できない事象によって説明がつかないのですが、成功するときがあります。神の導きによるものだと解釈されます。
神「ワシのおかげや」
(提供:サカイ引越センター)
ジョークです。
ともあれ、カトリック教会の信者にとって〈ザ・ミッション〉は絶対に不可能な“Impossible”重荷です。しかし、それをやり遂げると誓い、実際にイエズス会の宣教師はやり遂げてきました。
『ミッション:インポッシブル』
ジョークです。
それだけ純粋にイエズス会は信仰心の篤い人たちだったのです。
イエス・キリスト「重荷を背負う人、疲れた人は、誰でも私のもとに来なさい。あなたたちを休ませてあげましょう。私は柔和で謙遜な人だから、私の軛(くびき)を負って、私に学びなさい。そうすれば、あなたたちは安らぎを得るでしょう。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからです」
――「マタイによる福音書」第11章第28-30節
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