「東アジアの思想」という話-032

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「東アジアの思想」という話-32

【南北朝時代】
《南朝》
南に逃れた東晋のあとの、漢人の四朝(宋・南斉・梁・陳)を南朝と呼びます。対して、北朝(北魏・東魏・西魏・北斉・北周)は異民族です。

〈六朝〉
呉(三国)の首都は建業(けんぎょう)です。東晋のときに建康(けんこう)と名を変えますが、場所は同じ今の南京です。続く南朝も建康を首都にしましたので、呉(三国)から陳までを六朝と言います。

・呉(222年―280年)
・東晋(317年―420年)
・宋(420年―479年)
・南斉(479年―502年)
・梁(502年―557年)
・陳(557年―589年)

文化としては華やいだ六朝時代ですが、世襲貴族の力が強いわりに政治に関心が少ないので、王朝としては短いものが多いです。

高級官僚である貴族が仕事をせず、特権を行使しつづければどうなるか。北を統一した隋にあっさり破れてしまいました。

《北朝》
北朝(北魏・東魏・西魏・北斉・北周)は、五胡十六国(304年―439年)につづき、異民族が支配する国です。寒冷地の遊牧の部族国家が、漢人の貴族を追い出して、武力制覇した国です。

・北魏(386年―534年)
・東魏(534年―550年)/西魏(534年―557年)
・北斉(550年―577年)/北周(557年―581年)

ここで逆転現象が起きます。征服したはずの異民族が、中国社会で落ちこぼれてしまうのです。それはそうです。まったく違う文化です。武力ではなく、中国の政治です。遊牧ではなく、農耕です。異民族が、中国の政治や農耕に詳しいはずがありません。

それに平和です。武人は役に立ちません。

さて、北魏の施政者はどうしたか。

中国文化に深く傾倒した若い孝文帝(在位:471年―499年)は、洛陽に遷都し、北族の生活・文化を中国化(!)しました。

洛陽は、後漢・魏(三国)・西晋の都です。文治――文明(学問・芸術・文学)による統治を行おうとしました。

それは逆に、族人の反乱を招きました。文治は理想論です。北魏は東西に分裂しました。

やがて東魏・西魏は、それぞれ北斉・北周に代わり、北周は北斉を破り北朝を統一します。

【隋】(581年―618年)
北朝から出た隋は、北朝の北斉の静帝より禅譲を受け、南朝の陳の後主を降し、西晋が破れて以来(316年)ようやく南北を統一します。

北周の武人だった隋の初代皇帝楊堅(ようけん)(文帝)は、大興(後の長安)を都としました。

北朝の中央集権を高め、南朝の貴族を否定しました。科挙の登場です。前述の『「東アジアの思想」という話-28』【科挙制度の確立】を参照してください。

文帝は、次子楊広(煬帝)に殺されたそうです。皇太子を廃位された長子楊勇(ようゆう)ももちろん……。

煬帝は、長城によって北を防衛し、西方の東西交通路を回復したので、西域の国家は隋に朝貢(ちょうこう)するようになりました。ヴェトナムや真臘(カンボジア)や赤土(スマトラ)も朝貢しています。朝鮮半島の百済・新羅や日本も例外ではありません。

ただ、唯一隋の煬帝の「徳」に従わなかったのが、ツングース系民族の高句麗です。隋は、三度の高句麗遠征を強行します。『孫子』にあるように、戦争は国を疲弊させます。

外交上手だった煬帝は、日本の「日出處天子」に対して、裴世清(はいせいせい)という官人を、遣隋使小野妹子らの帰国に随伴させています。

煬帝の歴史的評価は低いです。驕奢から国を傾けたのは事実ですが、一級の文人であったことは否めません。

【「沈黙」という話/「東アジアの思想」という話】リスト(16+35+号外1)

 

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