「東アジアの思想」という話-7
【『論語』の思想的世界】
『論語』は東洋の宝石です。比喩ではなく、文字どおり切磋琢磨され生き残ってきました。
〈『論語』〉
儒学の最高の教典が『論語』です。
「孔子は仁を説く。仁は慈愛の徳であって、孝弟忠信のごとき家庭的及び社交的道徳を推し広めて、一層広大なる意義あり普遍的価値あるに至らしめたものである」
――宇野哲人『中庸』(講談社、1983年)
ふつう中国の書は書いた人の名がつけられます。『孟子』は孟子、『荀子』は荀子、『老子』は老子、『荘子』は荘子が書いています。
なお、孟子と荀子は儒家(じゅか)ですが、老子と荘子は道家(どうか)です。儒家は儒教で、道家は道教です。どちらも『易経』から派生したものですが、対立しています。
「易の作者については古来相伝えて伏羲(ふっき)が八卦を画し、文王がこれを演(の)べて六十四卦となし、文王と周公が卦爻の辞すなわち彖辞と爻辞とを作り、孔子が十翼を作ったといわれている」
――高田真治訳、後藤基巳訳『易経』(岩波書店、1969年)P16
もっとも、どれも「そうだとされている」伝承です。
本当かどうかは不明ですが、孔子は老子に師事したとされています。道教と対立していましたから、儒教側が老子の権威を利用した作り話でしょう。『老子』については別の機会にしましょう。
どうして『孔子』という書名ではないのか、正直よく分かっていません。ともかく、『論語』と呼ばれています。孔子の死後にまとめられました。誰が編集したのかは諸説あり、こちらも不明です。
『論語』の「論」は整理された言葉で、「語」とは対話です。孔子が一人で書いたのではありませんし、今日の学校のように先生が大勢に話しているのでもありません。孔子が弟子や知人と話している内容です。対話した時のメモを後でまとめたものが『論語』です。
『論語』はその場その場での話ですから、理論的に矛盾するところがあります。当然、時代によって考え方が変わっています。
――孔子は「四海の内、みな兄弟なり」と博愛を主張するが、その反面では「士(知識人)」を重んじ「民」を支配される者として差別し、かつ、自分が天命を受けた天才であると自負している。『論語』には復古的な身分差別を守り、礼教によって個人をおさえる主張が強いため、封建体制を維持する保守派の支柱となったが、晩年の孔子は、常識に反逆する狂狷(キョウケン)の徒を愛することを強調しており、それがのち明(ミン)末の陽明学左派のような体制反逆者に受け継がれた。――
――『漢字源』EPWING版(学習研究社、1993年)
福沢諭吉が怒る訳です。
ともかく立派な本です。それだけに「論語読の論語知らず」という諺があるぐらいです。どれだけ素晴らしい事が書かれていても、所詮書は書です。理解できていたとしても、実行などできません。できないはずですが……。
〈孔子が目指したもの〉
古の聖人、孔子は何をしようとしたのでしょうか? ――周の礼制による理想社会の実現です。
「子曰く、我は生まれながらにして之を知る者に非ず。古を好み、敏にして以て之を求める者也」
――『論語』「述而」
「子曰く、述べて作らず、信じて古を好む」
――『論語』「述而」
「有子曰く、礼の用は和を貴しと為す。先王の道も斯れを美と為す」
――『論語』「学而」
どれだけ「昔は良かった」表現なんでしょうか……。ただし、単なる懐古主義ではなく、実際に行っていました。でなければ弟子はついてきません。「渇すれども盗泉の水を飲まず」だった訳です。
※孔子はどんなに喉が渇いても「盗んだ泉」という名を嫌って飲まなかったそうです。
とは言え、いくら伝統があると言っても、春秋時代の東周は小国です。太宰治じゃありませんが、斜陽です。権威があるとしても実力がなければどうしもようもありません。
孔子は理想を説きますが、諸侯は耳を貸しませんでした。
なお、ユダヤ教の理想である『旧約聖書』に預言された救世主(キリスト)を実現したのがイエス・キリストです。
※救世主(キリスト)はヘブライ語でメシアです。
〈「礼」とは何か〉
「礼」は宗教的儀礼です。「孝」は社会模範の連続性です。
「礼を学ばずんば、以て立つこと無し」
――『論語』「李氏」
「(猛懿子(もういし)、孝を問う。)子曰く、生けるにはこれに事うるに礼を以てし、死すればこれを葬るに礼を以てし、これを祭るに礼を以てす」
――『論語』「為政」
バリバリの官僚制です……。
〈道徳的修養〉
「礼」を支えるのが「仁」です。「仁」の実現への「道」の探究があります。
「顔淵、仁を問う。子日く、己に克ちて礼に復るを仁と為す。一日己に克ちて礼に復れば、天下仁に帰す」
――『論語』「顔淵」
完全な理想論です。あくまで文治――文明(学問・芸術・文学)による統治です。武断――武力による統治ではありません。
「子曰く、朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」
――『論語』「里仁」
もう言い切っています。実現への「道」を知ることができれば、死んでも良いとまで……。こうなると学問というよりは宗教です。
〈「仁」とは何か〉
孔子の言う「仁」は「愛」です。
「樊遅、仁を問う。子日く、人を愛す」
――『論語』「顔淵」
ただし、キリスト教の「愛」とは似ていますが、違います。仏教の「慈悲」とは、まったく違います。あくまで立場が上の人から見た考え方です。
「其れ恕か。己の欲せざる所は人に施すこと勿れ」
――『論語』「衛霊公」
キリスト教との対比で、「マタイによる福音書」第7章第12節の「己の欲する所を人に施せ」がよく引用されます。
〈人倫関係〉
一方で、孔子は親子の関係についても語っています。
「葉公(しょうこう)、孔子に語りて曰く、吾が党に直躬(ちょくきゅう)なる者あり。其の父、羊を攘(ぬす)みて、子これを証す。孔子曰く、吾が党の直き者は、是に異なり。父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直きこと其の中(うち)に在り」
――『論語』「子路」
親は子のため子は親のため、罪を隠すというのです。実際、これは現代社会でも許されていることです。
(親族による犯罪に関する特例)
第百五条 前二条の罪については、犯人又は逃走した者の親族がこれらの者の利益のために犯したときは、その刑を免除することができる。
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/M40/M40HO045.html
「君は君たり、臣は臣たり、父は父たり、子は子たり」
――『論語』「顔淵」
身分を辨(わきま)えるということ……。
「子曰く、必ずや名を正さんか」
――『論語』「子路」
「名」がないと、何もできません……。
〈政治論〉
徳治――「礼」「徳」による政治です。
「子曰く、政を為すに徳を以てせば、譬えば北辰の、其の所に居て、衆星の之に共(むこ)うが如し」
――『論語』「為政」
「北極星が中心で、他は回っているよね?」という上から目線……。
「子曰く、之を道びくに政を以てし、之を斉ふるに刑を以てすれば、民免れて恥無し。之を道びくに徳を以てし、之を斉うるに礼を以てすれば、恥有りて且つ格る」
――『論語』「為政」
「法律を強化するより、道徳を強化せよ」――日本は法治国家です!
〈君・臣・民〉
身分・身分・身分です。
「君は臣を使ふに礼を以てし、臣は君に事うるに忠を以てす」
――『論語』「八佾」
理想の上司は、想像上の生物です。
かなり批判的に書きましたが、それでも『論語』の普遍的な教養と、強大な思想を否定できません。
なお、『論語』を含む四書は、ベルギーのイエズス会修道士フィリップ・クプレ(1623年―1693年)によって、1687年にラテン語で出版されています。
「歴史の陰にイエズス会あり」です……。