『ホンモノの日本語を話していますか?』少年のころに読んでほしい本-1

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『ホンモノの日本語を話していますか?』少年のころに読んでほしい本-1

とりとめもなく書いてみましょう。

金田一春彦『ホンモノの日本語を話していますか?』(角川書店、2001年)
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日本語の中には美しい単語の一つとして「姿」という言葉がある。これは何かを着ていなければ姿にならない。「浴衣姿」とか「花嫁姿」とか、みんな服装という意味が入っている。そういう表現に日本語の美しさがあるように私は思う。
——金田一春彦『ホンモノの日本語を話していますか?』(角川書店、2001年)P51

日頃なにげなく使っている日本語の実に美しいこと!

日本語は「恩に着せるような言い方をしない」のです。

みなさんにもそういう経験はおありだろう。例えば家庭でも、この恩を着せない言い方を普段なさっているのである。御主人が仕事場で働いていらっしゃる。帰ってきたとき奥様がお茶を入れる。お茶を入れて御主人のところに持ってくる。そのとき何と言うか。「あなた、お茶が入ったわよ」。これはすばらしい日本語である。「お茶が入ったわよ」と言っても、お茶は自然に入るものではない。お茶が入るためには、奥様はお湯を沸かし、急須(きゅうす)にお茶の葉を入れ、お茶碗(ちゃわん)に注ぎ、適当なお茶菓子を添える。それだけの手間をかけているのである。

アメリカ人の奥さんだったら何と言うか。「私はあなたのためにお茶を入れたのよ」と言うだろう。あるいは「あなたのためにお茶が用意されている」と言うかもしれない。英語の先生に聞いたわけではないが、おそらくそういう言い方をする。そう言われたら亭主は黙っているわけにはいかない。「すまんな、ありがとう」とか言ってお茶を飲むことになるだろう。日本の奥さんはそういうことを言わない。「あなた、お茶が入ったわよ」と、まるで自然に雨が降ってくるみたいに、お茶が自然に入っているように言うのである。これはすばらしい。だから日本の亭主は「ありがとう」なんて言わない。「うん」、これでおしまいである。こういうことはお茶に限らない。「あなた、お風呂(ふろ)が沸いているわよ」「あなた、ご飯ができたわよ」「布団が敷いてあるわよ」。全部自然にできているように、自分がしたということをいっさい言わない。これは日本人の修養である。相手に恩に着せるようなことは言わないことになっているのである。
——金田一春彦『ホンモノの日本語を話していますか?』(角川書店、2001年)P65-66

こうしたことを書くと、男女差別だと言う人もいるかもしれません。実際いるでしょうけれど、違いますよ。

親しい人が自然でいられるように尽くしているだけで、奥さんが差別だと感じている訳ではないのですから。

 

たとえば、『美味しんぼ』のTVアニメーションの第112話「ほうじ茶の心」(原作18巻「焙じ茶の心」)で、芸術家海原雄山の病床の妻がかいがいしくもお茶をいれます。けれど、息子の山岡士郎にはその愛情が分かりません。

(奥さんにしてみれば、それが生きる支えだった訳です。当然、海原雄山も承知で無理を言っています。)

この括弧の中のことを、バカ息子は理解しようとしません。母が亡くなると、父が殺したと思い込み、父の作品を壊して出奔します。

海原雄山にとって、そうした妻の愛情に支えられた作品がどれほど大切だったか想像に難くありません。よって、気の利かない息子を勘当します。

 

別にこれは、男尊女卑ではありません。「親しい人が自然でいられるように尽くしている」のは素晴らしいことなのですから。

幼い子供さんがいる家庭なら、お母さんが眠っている子供の掛け布団をかけなおします。普通のお父さんもかけなおしていますよ。(ここで「普通」が何かは横においておいて。)

長年連れ添った奥さんが眠っているときに、気になったご主人が布団をかけなおしている場合が多々あります。これ絶対に言わないですよ、ご主人は。

 

最近は「ご主人・奥さん」というと差別しているような言葉になっていますが、東アジアの思想の「陰陽」です。

 

東アジアの思想の「陰陽」の陰は、全くのマイナスではありません。

表の陽を際立たせる、言うなれば基礎としての陰影で、陰あっての陽、陽あっての陰です。

たとえば、日本料理以外の西洋料理は、完全な陽です。

「私が作りました」と料理人ですら表看板です。

これは、芝居が終わった後に、再度、幕を上げ俳優に拍手をするようなものです。どうも好きになれません。

「黒衣に徹する」という言葉があります。

西洋料理は、みんなが主役。お客様も接待した方もお店さんもwin-win-winです。

日本の料理はお客様が主役、接待した方は脇役、お店さんは黒衣(くろご)です。そこに勝ち負けがあってはならないのです。

調和させるために、あえて引く何かが陰なのです。

 

こうした「陰陽」を理解せずに、日本語を話せば、それは差別にもなるでしょう。

 

「陰陽」を徳にたとえてみましょう。

陽徳は誰もが目に見える人に分かるような善行です。プラス要素で、尊敬を受け、地位や名誉が与えられます。陰徳は誰にも知られずにする人に分からないような善行です。陰徳はマイナス要素で、日々のマイナスを中和してくれます。穴埋めしてくれるのです。古の書には「陰徳を積みなさい」と書かれています。

陽徳はプラスの梯子(天国への階段)で、陰徳はマイナスの命綱(蜘蛛の糸)です。ですから陽徳をしたとしても、マイナスの補填にはならないので足をすくわれますし、陰徳をしたとしても、プラスに作用しないので地獄でしか使えません。

ただし、この世には地獄が多いのです。#blackjoke になっていないところがこの世の不思議です……

 

これは言葉でも同じことで、日本語は全部言いません。「提灯(ちょうちん)に火をつけた」と言いますが、「提灯に火をつけた」ら燃えますよ?(P73)

「お湯を沸かす」としても、蒸気になりますし、「ご飯を炊く」としても、お粥(かゆ)になります。(P78)

論理的ではありませんが、それだから伝わるものもあるということです。

「姿」という言葉もそうです。肉体を表現している訳ではなく、その様式を述べています。

日本語は、心にどううつるかを表現する言葉なのです。

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