「東アジアの思想」という話-9
【楊子(楊朱)】
老子の考えを発展させて「為我」という個人主義を主張して、墨子の「兼愛」という博愛主義に対立したのが、楊子(楊朱)です。
個人主義というと、古代ギリシアのエピクロスの快楽主義のようですね。もっともエピクロスの唯物論は、欲望そのままではなく、欲望から解放されたやわらかな心境(アタラクシア)です。
【『孟子』の思想的世界-1】
『孟子』を記した孟子は、孔子の孫の子思の門人に学びました。孔子の仁に、孟子は義をプラスして思想を深めました。君主の仁に、臣下は義で報いる「仁義」です。
仁義礼智を「惻隠・羞悪・辞譲・是非」(四端の心)として、戦国諸子百家にあって、儒教思想の基礎を確立しました。
「民を貴しと為す。社稷これに次ぎ、君を軽しと為す」(『孟子』「尽心下」)から、「湯武放伐」――悪政の君主を人民は追放してもよいとしました。
――不徳の君主は伐つべきだという孟子の主張は体制に反逆するものであるため、日本の江戸中期の国学者も、これを危険思想として批判した。逆に、王陽明のような心性自由を目ざす学派は個人の自覚をうながす『孟子』の勇気を高く評価した。本書は、江戸末期の吉田松陰ら幕末の志士を鼓舞する心のかてとなった。
――『漢字源』EPWING版(学習研究社、1993年)
その一方で、「心を労する者は人を治め、力を労する者は人に治めらる」と、階級差別を主張しました。
孟子の「性善説」に対して、後の荀子は「性悪説」を説きます。
《楊子・墨子批判/孔子の教えの継承の自認》
〈楊子・墨子批判〉
「楊氏は我が為にす、是れ君を無みするなり。墨氏は兼愛す、是れ父を無みするなり。父を無みすし君を無みするは、是れ禽獣なり」
――『孟子』「滕文公下」
「楊子の個人主義では君主が蔑(ないがし)ろになり、墨子の兼愛では父が蔑ろになります。父や君主を蔑ろにするのは獣です」と孟子は言います。
かなり厳しく批判していますね。
〈孔子の教えの継承の自認〉
「楊・墨の道息(や)まずんば、孔子の道著われず。是れ邪説民を誣い、仁義充塞するなり。仁義充塞すれば、則ち獣を率いて人を食(は)ましめ、人も亦将に相食むに至らんとす。吾此が為に懼れ、先聖人の道を閑(まも)り、楊・墨を距(ふせ)ぎ、淫辞を放(しりぞ)け、邪説の者作(おこ)るを得ざらしめんとす」
――『孟子』「滕文公下」
「聖人の道」とは、堯舜からの正統性です。「仁義がないと、世の中が無茶苦茶になりますよ」という話です。
ちなみに、ホホジロザメは卵胎生で、子宮の中で卵から孵化して、子が生まれます。その間、子宮内部で共食いをします。容赦ないです。
“ANNE. No beast so fierce but knows some touch of pity.”
“GLOUCESTER. But I know none, and therefore am no beast.”
――“King Richard III”
http://www.gutenberg.org/ebooks/1103
ウィリアム・シェイクスピア『リチャード三世』で、未亡人アンが「どのような獣であれ、憐れみはあるものです」と言うのですが、グロスター公リチャード(後のリチャード三世)が「それすら持たぬ私は獣ですらない」と答えるシーンがありますね。
この台詞は、黒澤明原案の映画『暴走機関車』にも使われています。
《人間論》
〈四端の心〉
「人、乍(にわか)に孺子(こじゅし)の将に井(いど)に入(お)ちんとするを見れば、皆怵惕(じゅつてき)惻隠の心有り。交(まじわり)を孺子の父母に内(い)るる所以に非ざるなり。誉れを郷党朋友に要むる所以に非ざるなり。其の声を悪みて然するに非ざるなり。是に由りて之を観れば、惻隠の心なきは人に非ざるなり。羞悪の心なきは人に非ざるなり。辞譲の心なきは人に非ざるなり。是非の心なきは人に非ざるなり。惻隠の心は仁の端なり。羞悪の心は義の端なり。辞譲の心は礼の端なり。是非の心は智の端なり」
――『孟子』「公孫丑上」
「今にも子供が井戸に落ちそうになっていたら、いたたまれず助けようとしますよね? 別に子供の父母に取り入ろうとしている訳ではないでしょう? 友人知人に自慢したいからでもないでしょう? 助けないと非難されるから助ける訳でもないでしょう? こうしたあわれみの心がない人は人ではありません。善の心がない人は人ではありません。譲る心がない人は人ではありません。善悪を判断する心がない人は人ではありません。人の不幸を見過ごせない心は、仁のはじまり。不善を見過ごせない心は、義のはじまり。譲る心は、礼のはじまり。善悪の判断ができる心は、智のはじまりです」
「性善説」は、四端の心「惻隠・羞悪・辞譲・是非」に表現されます。
〈良知良能〉
「孟子曰く『人の学ばずして能くする所のものは、其の良能なり。慮(おもんばか)らずして知る所のものは、其の良知なり。孩提(がいてい)の童も、其の親を愛するを知らざる者なし。其の長ずるに及びてや、其の兄を敬するを知らざる者なし。親を親しむは仁なり。長を敬するは義なり。他なし。之を天下に達するなり』と」
――『孟子』「尽心上」
「良知良能(りょうのう)」という諺の原典です。良知良能は、人が生まれながらにもっている正しい知能です。
〈五倫五常〉
「父子に親有り、君臣に義有り、夫婦に別有り、長幼に叙(序)有り、朋友に信有り」
――『孟子』「滕文公上」
対人関係である「五倫(ごりん)」は、国立国会図書館のレファレンス協同データベースに記事があります。
http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000141481
良い事ばかりではありません。「身を辨(わきま)えよ」です。現代社会で同じことを言えば、大変なことになってしまいます……。
「五常(ごじょう)」は、儒学の四徳の仁・義・礼・智に、五行説から信を足して、五徳(仁・義・礼・智・信)にしたものです。五行説は別の機会にしましょう。
そういえば、五徳を頭にした小説がありますね……。横溝正史原作の1977年の映画『八つ墓村』の山崎努は秀逸です。
〈浩然の気〉
「『何をか浩然の気と謂う』と。曰く『言い難きなり。其の気たるや、至大至剛にして直く、養いて害(そこの)うことなければ、則ち天地の閒に塞(み)つ。その気たるや、義と道とに配す。是れなければ餒(う)るなり。是れ義に集(あ)いて生ずる所の者にして、襲いて取れるに非ざるなり』」
――『孟子』「公孫丑上」
「浩然の気」は、天地の間に満ちている気です。「義と道とに配す」とありますから、行いの是非を問うています。『易経』からのこうした考え方は対立していても、『老子』『荘子』と似たものがあります。