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「東アジアの思想」という話-026

「東アジアの思想」という話-26

【『荘子』の思想的世界-5】
《「明」》
雲外蒼天(うんがいそうてん)――雲の向こう側、遥か彼方は蒼い空です。

北冥の魚の鯤が、鳳(鵬)という鳥に変わり、南冥に羽ばたくとき一切が青になります。

その眼下に、二項対立や区別はありません。

「人がゴミのようだ!」
――宮崎駿『天空の城ラピュタ』

もはやすべてのものが、「易」――無窮の変化です。こうした俯瞰(ふかん)した視界――達観したものの見方を「明」と言います。「明」となって、ようやく世界は万物斉同となります。

《胡蝶の夢》
「明」では、夢も現(うつつ)も同じことです。「斉物論篇」に「胡蝶の夢(こちょうのゆめ)」があります。

「昔者荘周夢に胡蝶と為る。栩栩然として胡蝶なり。自ら喩しみ志に適えるかな。周を知らざるなり。俄然として覚むれば、則ち蘧蘧然として周なり。知らず周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるか。周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。此を之れ物化と謂う」

「むかし荘周が夢で、ひらひらとした胡蝶になった。ゆらりゆらり楽しんでいると、周だということが分からなくなった。ふと目覚めると、やはり周に違いない。果たして周の夢で胡蝶となったのだろうか、あるいは胡蝶の夢で周となったのだろうか。周と胡蝶とは必ず分別がある。こうしたことを物化という」

ふつうで考えれば、荘周が胡蝶の夢を見ています。けれど、荘周として目覚めた今が、胡蝶が荘周の夢を見ていないとどうして言えるのでしょう。

荘子は「周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん」と述べています。「必ず分別がある」としても、それにどうした違いがあるというのでしょうか。

19世紀末期を舞台としたアニメーション『黒執事(くろしつじ)』第19話「その執事、入牢」で主人公シエル・ファントムハイヴに、劉(ラウ)が意味深に「胡蝶の夢」の一節を口にします。
※枢やな『黒執事』

「この世界にはね、伯爵。現実が辛すぎて生きられない人たちがいる。私はそんな彼らに夢を売っているのさ」と述べる劉は、表向き中国の貿易会社「崑崙(こんろん)」の英国支店長ですが、その実、上海マフィア青幇(チンパン)幹部で、売っているのは阿片(あへん)です。

次の第20話「その執事、脱走」で、破れた劉は「この世はすべて胡蝶の夢だ」と語り消えます。

さて、「物化(ぶっか)」は、物の変化です。「明」から見れば、荘周が胡蝶の夢を見ているのと、胡蝶が荘周の夢を見ているのと、あまり変わりません。しかし、渾然一体としているようですが、限定的に自己を顕現しています。
cf.
橋本敬司「荘子の胡蝶の夢―物化の構造と意味―」

物化が何か、そうそう分からなくてもいいのかもしれません。

「私たちは夢と同じもので作られている。その儚(はかな)い生命(いのち)は眠りとともに消える」
――ウィリアム・シェイクスピア『テンペスト(嵐)』第四幕第一場

シェイクスピアがいうように本当は、夢見ている私たちのほうが夢の正体なのかもしれませんからね。#joke

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