「東アジアの思想」という話-25
【『荘子』の思想的世界-4】
《万物斉同》
〈万物斉同〉
荘子は、「万物斉同(ばんぶつせいどう)」と妄言しました。
この世の一切のものは「道」によれば等価――同じだというのです。
宇宙も同じです。時間も空間も「道」の前には同じこと、「易」――無窮(むきゅう)の変化です。
※『淮南子』「斉俗訓」によれば、宇宙の「宇」は天地四方で、「宙」は古往今来を意味します。
無窮――つきることがない変化――それは、生と死、夢と現(うつつ)も同じです。
〈大魚の鯤が大鵬となる〉
『荘子』を読み始めると、最初の「逍遥遊篇」に「大魚の鯤(こん)が大鵬(たいほう)となる」話があります。
「北冥(ほくめい)に魚あり、其(そ)の名を鯤と為(な)す。鯤の大いさ其の幾千里なるかを知らず。化して鳥と為るや、其の名を鵬(ほう)と為す。鵬の背、その幾千里なるかを知らず。怒(ど)して飛べば、其の翼は垂天(すいてん)の雲の若(ごと)し。是(こ)の鳥や、海の運(うご)くとき即(すなわ)ち将(まさ)に南冥に徙(うつ)らんとす。南冥とは天池(てんち)なり」
――玄侑宗久『荘子』(NHK出版、2015年)P84
「鯤」はもともと魚の卵の意味です。その小さいはずの鯤が、北冥――北の大海でとてつもなく大きくなります。それが鳳(ほう)(鵬)という名の鳥に変わります。鳳の背中もとてつもなく大きいです。ぐっと飛べば、その翼は天の雲のようです。海の荒れに乗じて、南冥――南の大海に行くのです。南冥とは、天の池です。
この想像上の鳳は、一飛びが九万里だそうです。別にキロメートルに替えなくても大丈夫でしょう。無茶苦茶大きいです。
さて、飛行機で旅行をした人なら知っているかと思いますが、下界でどれだけ雨が降っていようと、曇りで太陽が見えなくても、雲の上はいつでも晴天です。太陽や月や星たちの輝きを邪魔するものはありません。
青いお空のそこふかく、
海の小石のそのように、
夜がくるまでしずんでる、
昼のお星はめにみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。
――金子みすゞ「星とたんぽぽ」
「鳳が見下ろす世界は、全てが青一色。『天』『明』、あるいは『道』から見れば、全てが斉しい、万物斉同の世界が立ち現れます」
――玄侑宗久『荘子』(NHK出版、2015年)P85
こうした感覚に、デジャヴュ――既視感を覚える人も多いでしょう。
仏教の「空」の考え方が近いです。というのも、仏教が中国に入ってくるときの翻訳に、『老子』『荘子』『中庸』『淮南子』などからの言葉が使われたからです。言葉を借りれば、その思想も流れ込んでしまいます。
たとえば、『般若心経』には「色即是空(しきそくぜくう)」「空即是色(くうそくぜしき)」とありますが、当初はこの「空」を老荘の「無」から解釈したそうです。しかし、「空」と「無」は、似て非なるものです。別の機会にしましょう。
〈やむをえず〉
荘子は、流れのままに変化することを語っています。
「感じて而(しか)る後に応じ、迫られて而る後に動き、已(や)むを得ずして而る後に起(た)ち、知と故(こ)とを去りて、天の理に循(したが)う」
――玄侑宗久『荘子』(NHK出版、2015年)『荘子』「刻意篇」P41
「やむをえず」している訳です。これは人の影が、人の動きに従っているのと同じことです。その影が言うのです。「人でさえ、何かに従っているだけだろう」(「斉物論篇」)と。
ある研究によると、人はまったくの主体性で動くことはないそうです。
それが本当であれ、嘘であれ、時には流れのままに個を委ね、思想の翼を広げるのも楽しいものです。