「東アジアの思想」という話-16
【はじめに文書ありき】
〈はじめに文書ありき〉
文書の成立が法治国家のはじまりです。とりあえず文書であれば「言った言わない」論争はない。――とされています。ただし、どのような時代であれ、解釈は多様ですから争いは絶えません。
人類は、専門家が知の泉から水を汲み、知の器に入れ、時間を経(か)け、澱(おり)を沈めた上澄み水(専門文書)をそっと飲んできました。
〈知の泉〉
21世紀になってからは紙媒体で文書を読む以外に、簡単にインターネットで文書を読むことができるようになりました。もはやインターネットの情報量は、個人が一生で学ぶ量を遥かに超越しています。専門文書でさえそうした状態です。
インターネットにより多くの人たちが、専門家以外でも意見を述べることができるようになりました。
ちょうど『アルジャーノンに花束を』でチャーリイ・ゴードンがラハジャマティの論文から、ニーマー教授の言葉を止めるようなものです。
※ダニエル・キイス、小尾芙佐訳『新版 アルジャーノンに花束を』(早川書房、2015年)P226-228
誰もがチャーリイにはなれませんから小人――学びを知らない不作法な者が、知の器を揺らし、水を濁らせることになります。壊された器もあります。二度とは元に戻りません。
〈知の再構築〉
小人が神聖な知の泉に土足で立ち入るようになった訳です。専門家にしてみれば、たまったものではありませんが……。
言わば知の玉石混淆(ぎょくせきこんこう)――宝石と石ころが入り交じっている状態です。どれが本当か分かりにくくなっています。
しかし、悪いことばかりではありません。数が増えれば、質は向上します。人の学びに少数精鋭はありません。多くの「くだらない」物事の上に歴史があります。壊れた器は金継ぎにより美しく再生されます。
cf.
『「あまり一生懸命になるな」という話』
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【記録媒体】
〈紙の発明〉
人間は言葉を使い、それを記録し、再生することができます。最近では音声入力ができるようになりましたが、それ以前は(今でもそうですが)文字を書いていました。
一番よく使われている記録媒体は、紙でしょう。
紙の発明は古く、105年に後漢の宦官蔡倫(さいりん)が樹皮・ぼろ布・魚網などから紙をつくって和帝(わてい)に献上したのが始まりだとされています。もっとも蔡倫が発明したというより今まであったものを再発明(改良)したというべきでしょう。
どうして正確な年代が分かるかというと『後漢書』という歴史の書籍に書かれているからです。中国人はしつこいぐらい書き残しますからね……。
なお、英語の“paper”やフランス語の“papier”は、パピルスに由来します。
〈崔杼弑君〉
書き残すと言えば、『春秋左氏伝』に「崔杼弑君」という故事があります。春秋十二列国の斉(せい)で、崔杼(さいちょ)が妻と通じた君主荘公(そうこう)を弑(しい)します。「弑」は、臣下が主君を殺めることです。子の親殺しにも使われる言葉で、儒学では重罪です。
しかし、斉の太史が史書に「崔杼が君を弑した」と記しました。公の文書に「弑」が記録されてしまったのです。暴君であれば討つのは止むなしです。しかし、完全な私怨です。女寝取られたぐらいで、君主を討つなどあってはならないことです。
そこで、崔杼はその太史を殺します。歴史の修正です。ですが、太史の弟が記します。崔杼はその弟も殺します。さらに、その弟が記します。三回目です。さすがに、崔杼は諦めてその弟を許し、歴史にその名を残しました。もっと言えば、太史兄弟が殺されたときに、別の太史が竹簡(ちくかん)を持ってきたとか……。中国人が執拗に書き残す例です。
『春秋左氏伝』には、崔杼が易占による警告を無視したことが書かれています。同姓の美しい後家さん棠姜(とうきょう)を無理に迎えてしまったのです。結果、全員亡くなりました。
その美人妻に恋して殺された荘公には、「蟷螂の斧」という故事があります。蟷螂(とうろう)はカマキリのことです。カマキリの武勇に惚れた荘公は、一匹の虫に道を譲ります。荘公には、多くの勇者が集まったと言われています。なお、荘公は太公望の子孫です。
〈竹簡〉
紙が発明される前は、竹簡(ちくかん)が使われていました。孔子が読んでいたのは竹簡の『易経』です。
竹簡はけっこう発掘されています。1972年に、『孫子』の竹簡が発見され、孫武の存在が明らかになりました。『孫子』については別の機会にしましょう。