「沈黙」という話-9
【機械仕掛けの神】
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの作品に『ファウスト』があります。ファウストは悪魔メフィストフェレスと契約をします。己の欲望のためにその魂を差し出すのです。
“Verweile doch! du bist so schön!” Faust_1700
ラストで、ファウストは契約の言葉「とまれ、お前はそう美しい」を口にしますが、天使が舞い降りファウストの魂を救済します。結果、悪魔メフィストフェレスのそれまでの苦労が水の泡になります。
このように、物語に全然関係ないのに神が手出しして結末を変える手法を「機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)」と言います。「夢落ち」と同じくあまり誉められた手法ではありません。
柳生但馬守宗矩「これは夢でござる」
――映画『柳生一族の陰謀』
悲劇に多い「機械仕掛けの神」ですが、私たちはどこかで信じていませんか?「きっと助けてくれるだろう」という淡い期待をよせて……。
現実は滅多に助けてくれません。無宗教の人に言わせると「神は、思いやりのある素晴らしい上司や、白馬の王子さまと同じく想像上の生き物だ」そうです。ままリアルに白い馬で王子さまが来たら、メチャクチャ引くと思いますけれど……。
何故にこれほどまで私たちは弱いのでしょうか。
【デカルトの申し子】
私たちは人生で何度も悲劇的な出来事に遭遇しますが、信仰とは別に、人間が「神さまって本当にいるのかしら?」と思い始めたのはいつでしょうか?
※あくまで、信仰とは別ですよ。思想的な話です。
1637年に、フランスの哲学者ルネ・デカルトの『方法序説』が発表されます。“Cogito ergo sum”という言葉が有名ですね。ラテン語の「コギト・エルゴ・スム」の意味は「我思う、故に我あり」です。何かを疑うとしても、それを疑っている自分だけは否定できませんからね。
※哲学的には間違っていますが、とりあえずこのままで。また別の機会にしましょう。
現代に生きる私たちはふだん「私はこうしたい」「それは私には納得できない」などと考えています。まず自分がいて、社会があります。しかし、それ以前の、たとえばウィリアム・シェイクスピアの『ハムレット』が書かれた時代(たぶん1598年―1601年)では「私(わたくし)は常に神といる時代」でした。
「哲学者ニコラウス・クザーヌスの『神の照覧あるが故に我在るなり』(神様が私をご覧になっているから、私は存在する)という言葉に象徴されるように、中世における自我は、自分ひとりで存在することはできず、常に神とともに受動的に世界に在るというものでした」
――河合祥一郎『シェイクスピア『ハムレット』(NHK出版、2014年)
現代の私たちの自我は理性といっしょにいますが、『方法序説』の前までは、人の自我はいつも神がいるのです。
同じように、現代の私たちは心と身体と、分けて考えています。これもルネ・デカルトが考えたことです。つまり私たちは常に「デカルト的な考え方をしている」のです。思想的には「デカルトの申し子」と言っても過言ではありません。
『方法序説』の前の後では、そうした物事の考え方がまったく変わってしまった(!)のです。
それまでの社会は「神といっしょに私(わたくし)がいます」から、天候不順で不作になるのも疫病が蔓延するのも、「神といっしょにいる私(わたくし)」がいけないのです。
たとえば、オイディプスがテーバイの王になってからというもの不作と疫病が続きました。今の私たちの感覚では、施政とそれらは無関係です。オイディプスはデルポイの神託から真実――「神といっしょにいる私(わたくし)」の罪を知ります。その王の罪によってテーバイは不作と疫病になってしまったのです。この話は、別の機会にしましょう。
「機械仕掛けの神」を純粋に信じられない「デカルトの申し子」である現代の私たちは、『方法序説』より前の「神といっしょにいる私(わたくし)」である人たちを判断することは大変困難なのです。
ちなみに、島原の乱は1637年から1638年です。