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「東アジアの思想」という話-003

「東アジアの思想」という話-3

【境界線】
相手の境界線を越えて、話してはいませんか? 誰しも譲れないものはあります。それを踏み躙んではいけません。

ここでは、特定の思想を全て肯定しませんし、全く否定するものでもありません。どのような考え方にも一長一短があり、その一つをもって全面肯定・全面否定するのはおかしいです。

ただし、パラダイムシフトから地動説になっているのに、調べもしないで過去の天動説を支持する人とはお話できません。
※パラダイムシフトについては、前述の「「東アジアの思想」という話-2」【パラダイムシフト】を参照してください。

【思考の幅】
すぐに白黒を決めたがる人は、思考の幅が足りないのでしょう。思考の幅が足りないと、すぐにブレます。ブレると感情的になりやすいです。本人としては中途半端が嫌いなのでしょうが、中観せず中庸を知らずして何の思考なのでしょう。中観については別の機会にしましょう。中庸については後述します。

中庸と中途半端は、似ているようで違います。中庸はきちんと調律された弦楽器のようなものです。弦を強く張っても弱くしてもその音はでません。美しい音は人を癒します。中途半端は楽譜も見ずに気分だけでシンバルをずっと鳴らすようなものです。迷惑なだけです。

【歴史への想像力】

「いま必要なのは、一方が主張する『正しい歴史認識』をもう一方が諾々と受け容れることではない。共存と対立をありのままに浮かび上がらせることができるような、歴史への想像力なのである。繰り返しになるが、対立し合うナショナリズムにこだわる人々も、もし自らの『正しい』主張の由来を客観的に見るならば、対立する相手から多大な刺激を受け、それを内面化することによって今のナショナリズムが形作られてしまったのだという問題に気がつくであろう。それは、似たもの同士の負の連鎖による対立に過ぎない」
――平野聡『大清帝国と中華の混迷(興亡の世界史17)』(講談社、2007年)P37

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いよいよ本編です。心構えが長くなりましたが、心構えがなされていれば、自然と学ぶものです。

【東アジアの思想】
東アジアの思想とは、漢字が理解できることです。以上。

ちょっと言い過ぎかもしれませんが、漢字が理解できるところまでが文明圏です。東アジアの思想では、どのような人であれ、単純に漢字を理解できていれば文明人とされます。

やっぱり言い過ぎかしら……。でも、海外ですと、日本の文献って漢字が書かれているから、中国と同じ棚にあったりします。何年も前の話ですが、大英博物館でも未整理の日本の作品は中国とごちゃごちゃになっていたそうです。今もそうなのかしら……。

とりあえず、日本は東アジアの思想では文明国です。漢字以外にも、ひらがな・カタカナ・アラビア数字・ローマ字・各種記号なども使っていますので、ややそうした文明とは言い難いですが……端っこの文明国(?)ということにしましょう。

その端っこであっても一応は「文明国」であるはずの日本が、文禄の役(1592年―1593年)・慶長の役(1597年―1598年)によって、「聖人の国」中国の明を征服しようとします。一気に「野蛮国」になってしまいました。

【参考文献】
平野聡『大清帝国と中華の混迷(興亡の世界史17)』(講談社、2007年)

【「沈黙」という話/「東アジアの思想」という話】リスト(16+35+号外1)