「第三の視点」による倒叙記述(8)推理記述の読み手
【推理記述の読み手】
《都合の良い読み手はいない》
クライアントが求める「都合の良い読み手」は、「理想の上司」や「白馬の王子」と同様に「空想上の産物」で、実在しません。
現実に、クライアントが望むまったくの「都合の良い読み手」がいたなら「世界は破滅している」と思ったほうが良いです。イコールそれは、代理店に騙されていますからね。最悪が待っています。
単純に「第三の視点」による倒叙記述では、「第三者からの視点によって、賛成(肯定)と反対(否定)の両面を同時に考える」だけなのですが、人はどうしても自分の知見に頼りすぎる傾向があります。
視覚がトリックで簡単に騙されるように、そうした知見も穴があります。その穴を一つ一つ埋めていくのが、証拠資料(エビデンス)です。
ましてや、証拠資料(エビデンス)を集め、「いまの最善解」を導き出した代理店の人は、およそクライアントより偏差値が高いです。賢い人たちが必至に考えたことを愚者が否定する二重の意味の愚かさは笑えません。
それに、現実には、推理記述の読み手でさえ、クライアントの嘘を知っています。
これだけの情報化社会で、一方的だけを語るのは浅学か商売です。
書き手〈発信者〉が伝えたくないことを伝えないとき、読み手〈受信者〉もまた伝えられなかったと知っているのです。
「心するがいい。怪物と戦う者は怪物になるやもしれんことを。お前が深淵を覗くとき、深淵もまたお前を見ているのだ」
神を殺した哲学者フリードリヒ・ニーチェの言葉です。
推理記述のような、こうした茶番はやめましょうと、私は言っています。「第三の視点」による倒叙記述を使えばいいだけのことですから。
クライアントの情報に、賛成(肯定)であっても反対(否定)であっても、選ぶ人は選びます。そうした人たちを裏切るようなことをしても意味はありません。むしろ逆効果です。
今まで騙されてきたと知ってなおまだ選ぶ人を、これからも偽(いつわ)るのですか? ――という人間としての疑問です。
「100%正しいことなどない」「正解がない」のですから、あえて提案するのは「有」です。
不安からB案・C案を採用して、市場を混乱させるほうが異常です。
それには、賢い推理記述の読み手を「騙す」ほどのことをすればいいだけのことです。それだけの器量もないのに、ただ慣習に流されれば、他のクライアントと同じく流されるだけです。
今一度、クライアント自身が、賢い推理記述の読み手になることです。これは最高の楽しみですが、代理店は泣くでしょうね。