「天才は世界を窯変させる」という話
テクニックはいくらでも教えられるのですが、世界がそう見えるかどうかの問題は、写真家本人によるんですよね。そう見えないのにそうしろとは言えないですのでね。
——写真家・大串祥子
テクニックはいくらでも教えられるのですが、世界がそう見えるかどうかの問題は、写真家本人によるんですよね。そう見えないのにそうしろとは言えないですのでね。
— Shoko Ogushi (@vostokintheair) August 6, 2017
これがおもしろいのですが、一人が見えるとそうした見方が広がっていきます。文字通り、天才によって世界が窯変するのです。
大串祥子「テクニックはいくらでも教えられるのですが、世界がそう見えるかどうかの問題は、写真家本人によるんですよね。そう見えないのにそうしろとは言えないですのでね」
これがおもしろいのですが、一人が見えるとそうした見方が広がっていきます。文字通り、天才によって世界が窯変するのです。
— 門松一里bot (@ichirikadomatsu) January 26, 2018
具体的な例を一つあげましょう。
大友克洋監督作品『AKIRA』(1988年)です。
間違えました。
こちらは、渡辺信一郎監督「ブレードランナー ブラックアウト 2022」(2017年)です。『ブレードランナー』については、別の機会にしましょう。
今のコミックの表現は、大友克洋の登場によって大きく変わりました。平成になってコミックを楽しむようになった人には当たり前の表現が、それまでは存在しなかったのです。
というより、動の表現が静の表現である写真に戻った感がありますね。
知られているように、手塚治虫のコミックはアニメーションを意識して作られています。対して、大友克洋のコミックは想い出の一枚写真を並べられた映画のようです。もちろん、両方とも止め絵ですが、世界を変えてしまいました。
そのように見ることを覚えると、そのようにしか見られなくなるのです。
「ルビンの壺」(Rubin vase)では、壺が人間の顔に見えたりします。
一度覚えてしまえば、よく観察することを学びます。そうした注意深い観察が重なってできたものが私たちの世界なのです。
私たちは主観で物事を考えていると思っていますが、実際には多くの客観性によって主観が成り立っています。それらは、偉大な先人が見つけた「見方」です。その見方こそが、いわゆる客観性であり、それが作品になります。
繰り返しますが、主観のほとんどは先人の思考コピーでしかありません。おそろしいことに私たちは自分で何かを考えることがあまりないのです。
大抵の人間は壊れた機械です。過去にインストールした自分の常識が壊れると何も考えることができなくなります。だからこそ、時間を意識する形が必要になります。
もし君が立ち止まるなら、それは過去ではなく先ほどまでの現実なのだ。
写真は過去を固定し、過去を何度も再生します。それによって、現実を知ることができます。そして、常識は、限定された過去ルールだということを、歴史は教えてくれるのです。
「世界(ワールド)」の原義は「人の時」である。人の時、すなわち時間とは〈時の間(ま)〉である。時の間とは、ある人によれば現在(意識)と過去(記憶)の間、現在と未来(期待)の間、これら二つの時の間の交差点であるという。かくして世界は二つの時間がめぐり逢う〈あ・うんの間〉、呼吸する一瞬の間へと収斂されてひとつの「しるし」となる。
——木原誠(後藤正英編、吉岡剛彦編)『臨床知と徴候知』(作品社、2012年)P252