「あえて嫌われる」という話(bad-side-2)
「あえて嫌われる」ことで、自分に相応しい立ち位置を明らかにします。
自分に相応しい場所にいるようにすること。それだけで、他からの拒絶が消えます。そうした時間に高い価値があると知っている人たちと一緒にいましょう。
— 門松一里 (@ichirikadomatsu) March 29, 2018
自分に相応しい場所にいるようにすること。それだけで、他からの拒絶が消えます。そうした時間に高い価値があると知っている人たちと一緒にいましょう。
そこは、見晴らしのよい場所です。
自分に相応しい居場所を見つけられない人は永遠に彷徨(さまよ)うのです。#blackjoke
「あえて嫌われる」と書きましたが、そもそも真剣に「嫌われる」ことがありますか?
よほどでないと、「嫌われる」ことはありませんよ。
たとえば、「いじめ」の加害者は無自覚に犯罪を楽しんでいるだけです。被害者が変わったとしても、楽しみが変わることはありません。
よくあるじゃあないですか、「いじめ」のあとで、加害者が被害者と和解する話は。
そして、加害者が気づくのです。被害者もまた人間なのだと。
結局のところ、「いじめ」の加害者は、被害者の立場を何一つ知りません。知ろうともしません。おもしろい遊びを楽しんでいるだけ、無関心なんです。
愛の反対は憎悪ではなく、無関心です。
——エリ・ヴィーゼル
この言葉はコルカタの聖テレサ(マザー・テレサ)の言葉ではありません。
cf.
マザー・テレサの名言「愛の反対は憎しみではなく無関心だ」という言葉が掲載されている本を見たい。
http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000168519
引用先のレファレンス協同データベースは、国立国会図書館が全国の図書館等と協同で構築している、調べ物のためのデータベースです。
ウィキペディアとは格が違います。#joke(そもそも用途が違います。)
さて、かつてマザー・テレサと呼ばれていた宗教家は1997年に亡くなり2003年に列福され2016年に列聖し「コルカタの聖テレサ」という聖人になったのですが、あまりにも早い手続きに疑問がない訳ではありません。
cf.
ジャンヌ・ダルクが亡くなったのは1431年ですが、列聖されたのは1920年(!)です。
そもそも、科学が発達した(と考えられている)現代で、列聖に必要な「聖人による奇跡」が本当にあったのでしょうか。
とはいえ、いまだに人工生命体の制作すらできていない訳ですし。これができれば神の所業で史上最大の奇跡なのですが、現実にはヤカンでお湯を沸かしてタービンを回して発電しているだけで(原子力発電も同じです)、18世紀後半から何も進歩していません。
私たちは、SFのサイバーパンクの世界にいるのだ。#blackjoke
コルカタの聖テレサについては、カトリック教会の性的虐待事件の影響が考えられます。
『スポットライト 世紀のスクープ』という映画にもなっています。
2001年、アメリカ合衆国のボストンで、聖職者である神父が子供たちに性的虐待をしました。それを地元のボストン・グローブ紙の記者たちが新聞に掲載をする話です。
まさか、です。「聖職者がそんなことをするなんて!」です。
神父という地位は、欧米では特別です。襟にカラーがある服装は崇敬の対象です。
でも、人間だったんです。単なる犯罪者ですけどね。もうね、二次元のR18+美少年でいいんじゃあないのと思うのですよ。想像で描いている以上、被害者はいないのだし、R18+で子供に見せなければ何も問題ないのではと思うのですよ。
で、罪を犯した神父(という名の犯罪者)がどうなったかというと、カトリック教会は“病気”を理由に違う所で“療養”させたんです。それで治る訳もなく、被害が拡大してしまったという……。
バカだろ!
でも、です。事が公になると、大変なことになります。(実際に大変なことになり、ローマ教皇ベネディクト16世が辞任することになりました。)
カトリック教会の大きな陰謀? それとも巨大な権力?
いえいえ、それは単なる無関心だったんです。
田中泰延(たなかひろのぶ)は、「スポットライト 世紀のスクープ【連載】田中泰延のエンタメ新党」で、「本当の悪は、平凡な人間の凡庸な悪」というドイツ生まれのユダヤ人哲学者、ハンナ・アーレントの言葉を引用しています。
彼女はユダヤ人虐殺の指揮者、アイヒマンの裁判記録を通じて『イェルサレムのアイヒマン』という本を書きました。映画にもなっていますね。ナチスドイツの巨大な犯罪は、ヒトラーの大号令によって無理矢理なされたのか? 一人の大悪人が下した命令に、全員が従って悪事が起こったのか? いいえ、違います。
そこで明らかにされたのは、役割を与えられた組織人の義務感と、見なかったことにする姿勢、だんまりを決め込む態度、そして普通の生活があるという事実でした。そういった人間が順に積み重なって、結果、まるで精密機械が作動するようにユダヤ人の大量虐殺が起こったのです。
悪の現場には強権的に指揮するものもいなければ、狂気もなかったのです。悪がそのようなものならば、逆を返せば、「本当の正義は、平凡な人間の凡庸な正義」のはずです。
cf.
スポットライト 世紀のスクープ【連載】田中泰延のエンタメ新党
http://www.machikado-creative.jp/planning/30200/
「あえて嫌われる」ことで、自分に相応しい立ち位置を明らかにします。
「役割を与えられた組織人の義務感と、見なかったことにする姿勢、だんまりを決め込む態度」には、「あえて嫌われる」ことです。
それでも「普通の生活」があります。はたして、その為人(ひととなり)を知ったなら、無関心でいられるでしょうか。
理解を深め、それでも「あえて嫌われる」ことで排除したのなら、そこは見晴らしのよい場所になるでしょう。